江戸初期,島原の乱の首領とされる少年。居住地から江辺四郎,大矢野四郎,一揆の首領として天草四郎太夫時貞,天の四郎秀綱などと呼ばれ,洗礼名はジェロニモといわれるが,正確な素性はほとんど不明である。父益田甚兵衛はかつて小西行長に仕えた帰農武士といわれ,捕らわれた母親の陳述では,時貞は9歳で手習いを始め,学問のために長崎へも行ったという。一揆の首謀者である一部の庄屋や牢人たちは,彼を農民結集の核として天より下った救世主に仕立て,さまざまな奇跡を演じさせた。島原藩側では蜂起当初より15~16歳の彼を一揆の中心人物とみているが,彼の原城入城は1637年(寛永14)12月3日といわれ,翌年2月27,28日の総攻撃によって全員虐殺されるまで,固い団結の象徴であった。しかしついに素顔をみせることなく,彼の首と目されるものが母親らのそれとともに長崎に送られて晒(さら)された。
執筆者:中村 質
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1623?~38.2.28
島原の乱の一揆側総大将。通称天草四郎。関ケ原の戦後,肥後国宇土郡江部村に帰農していた小西行長の遺臣益田甚兵衛の子。姉婿の渡辺小左衛門らに「でいうすの再誕」とされ,象徴的存在として一揆を指導。はじめ天草富岡城を攻め,のち島原・天草の一揆勢を統合して肥前国有馬の原城に籠城。幕府軍の攻撃によく耐えたが,3万7000人のキリシタン民衆とともに討死した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
→天草四郎
…江戸初期の1637‐38年(寛永14‐15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。…
※「益田時貞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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