益田時貞(読み)マスダトキサダ

デジタル大辞泉 「益田時貞」の意味・読み・例文・類語

ますだ‐ときさだ【益田時貞】

天草四郎あまくさしろう

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精選版 日本国語大辞典 「益田時貞」の意味・読み・例文・類語

ますだ‐ときさだ【益田時貞】

  1. 江戸初期、島原の乱に首領として活躍した少年。俗に天草四郎。父は小西行長の遺臣益田甚兵衛好次という。島原・天草浪人農民とともに原城にたてこもり、寛永一四年(一六三七)から翌年にわたり幕府軍に抗戦した。元和九頃~寛永一五年(一六二三頃‐三八

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朝日日本歴史人物事典 「益田時貞」の解説

益田時貞

没年:寛永15.2.28(1638.4.12)
生年:寛永1?(1624)
江戸前期の島原・天草一揆の指導者。天草時貞とも呼ばれる。通称,天草四郎。肥後国(熊本県)宇土郡江部村に帰農した小西家浪人益田甚兵衛の長男で,洗礼名ジェロニモ。9歳で手習いを始め12歳から学問をし,長崎へもときどきでかけて学んだという。肥後国はその半国がキリシタン大名小西行長の領地であったため,家臣にも領民にもキリシタンが増えたが,藩主が変わりキリシタン禁制が強制されてのちも,潜伏あるいは表向き棄教したかたちで領内に住んでいた。天草諸島に潜むキリシタン浪人たちは,追放されたバテレンが残した書物に,26年後に善人ひとりが誕生し,その幼な子が習わないのに諸事を極め,天地自然に不思議な事が顕現し,野山白旗が立ち,諸人の頭に十字架が立つであろう,全てが焼け果てるであろう,とあると触れ,その善人が四郎に当たると宣伝した。ローマ教会からすれば土俗的な異端教説であるが,16歳の四郎への結集は童児が神の依りましとなるノリワラの民俗がこの地に生きていたためとされる。四郎が起こした奇跡といわれるものに,手をさしのべると空から鳩が舞い降りて掌に卵を生み,その卵を割ると中からキリシタンの経文があらわれた,竹に止まっている雀を枝ごと折っても逃げなかった,天草と有馬の中間にある湯島まで海の上を歩いて渡った,などがある。 一揆直前に親類の住む天草の大矢野島に父と渡り,キリシタンに立ち帰った島原・天草の百姓に「天之使」とみなされ,2万余とも3万以上ともいわれる一揆の「大将」に推戴された。島原領主(1616年入部した松倉重政,31年跡を継いだその子勝家)の苛政を原因として寛永14(1637)年10月に始まった農民の闘争は急速に全藩域に拡大,天草の蜂起とも合流して宗教一揆に変わり,熱狂的な四郎崇拝のかたちになって殉教の覚悟で死を恐れず闘う力が引き出された。さまざまな迫害・教化政策のもとで,島原・天草の農民はキリシタンであることを棄てていたが,元来教会から禁じられている領主の苛政に対する闘いのなかで,急速に復宗したのである。同年末原城の籠城態勢のなかで,四郎は説教を行いミサを主宰したといわれる。四郎の50歳ほどの母(洗礼名マルタ)と22,3歳の姉(洗礼名レシイナ),7歳ほどの妹まんは城に入る前に捕らえられ,降伏の説得工作に利用された。一揆勢は翌15年元旦,幕府上使板倉重昌を戦死させるなど果敢に闘うが,鎮圧軍側による2月28,29日の総攻撃でついに落城。落城後,母親が首実検させられて,細川藩の家臣が四郎を討ち取ったことが判明した。その首は長崎に送られて晒首にされた。のちに母や姉妹も処刑された。<参考文献>岡田章雄『天草時貞』

(深谷克己)

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改訂新版 世界大百科事典 「益田時貞」の意味・わかりやすい解説

益田時貞 (ますだときさだ)
生没年:1623?-38(元和9?-寛永15)

江戸初期,島原の乱の首領とされる少年。居住地から江辺四郎,大矢野四郎,一揆の首領として天草四郎太夫時貞,天の四郎秀綱などと呼ばれ,洗礼名はジェロニモといわれるが,正確な素性はほとんど不明である。父益田甚兵衛はかつて小西行長に仕えた帰農武士といわれ,捕らわれた母親の陳述では,時貞は9歳で手習いを始め,学問のために長崎へも行ったという。一揆の首謀者である一部の庄屋や牢人たちは,彼を農民結集の核として天より下った救世主に仕立て,さまざまな奇跡を演じさせた。島原藩側では蜂起当初より15~16歳の彼を一揆の中心人物とみているが,彼の原城入城は1637年(寛永14)12月3日といわれ,翌年2月27,28日の総攻撃によって全員虐殺されるまで,固い団結の象徴であった。しかしついに素顔をみせることなく,彼の首と目されるものが母親らのそれとともに長崎に送られて晒(さら)された。
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百科事典マイペディア 「益田時貞」の意味・わかりやすい解説

益田時貞【ますだときさだ】

江戸初期,島原の乱の首領とされる少年。一揆の首領として天草四郎太夫時貞,天の四郎秀綱などと呼ばれ,洗礼名はジェロニモといわれるが,正確な素性は不明。父益田甚兵衛は小西行長に仕えたのち帰農したという。一部庄屋や浪人など実質的な一揆の首謀者たちは,彼を天より下った救世主に仕立て,農民結集の核としてさまざまな奇跡を演じさせ,一方島原藩も蜂起(ほうき)当初より彼を一揆の中心人物とみている。1637年時貞は原城に入城,翌年の総攻撃で全員虐殺されるまで,信徒団結の象徴であった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「益田時貞」の解説

益田時貞
ますだときさだ

1623?~38.2.28

島原の乱の一揆側総大将。通称天草四郎。関ケ原の戦後,肥後国宇土郡江部村に帰農していた小西行長の遺臣益田甚兵衛の子。姉婿の渡辺小左衛門らに「でいうすの再誕」とされ,象徴的存在として一揆を指導。はじめ天草富岡城を攻め,のち島原・天草の一揆勢を統合して肥前国有馬の原城に籠城。幕府軍の攻撃によく耐えたが,3万7000人のキリシタン民衆とともに討死した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「益田時貞」の解説

益田時貞 ますだ-ときさだ

天草四郎(あまくさ-しろう)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「益田時貞」の意味・わかりやすい解説

益田時貞
ますだときさだ

天草四郎

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世界大百科事典(旧版)内の益田時貞の言及

【島原の乱】より

…江戸初期の1637‐38年(寛永14‐15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。…

※「益田時貞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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