近世剣術の一流。享保(きょうほう)(1716~36)から田沼期に台頭した新流で、流祖は山田一風斎光徳(いっぷうさいみつのり)(1639―1716)。光徳は通称平左衛門(へいざえもん)、下野(しもつけ)国の出身で、初め高橋弾正左衛門重治(だんじょうざえもんしげはる)(直翁(じきおう))の門に入って、直心正統一(じきしんしょうとういち)流を学んだが、これに飽き足らず、柳生(やぎゅう)門の運籌(うんちゅう)流などの諸流を修めて36歳のとき帰門。1686年(貞享3)48歳で的伝の印可を許され、下野烏山(からすやま)藩永井侯に仕え、物頭(ものがしら)、知行(ちぎょう)150石を賜った。1710年(宝永7)江戸へ出て、剣士として進境著しい三男隼太(はやた)と父子協力して、芝西久保、通称江戸見坂に道場を開き、自ら鹿島神伝(かしましんでん)7代を称し、流名を新たに直心影流をたてた。16年(享保1)隼太改め長沼四郎左衛門国郷(くにさと)(1688―1767)が2代を継いだが、世評に「近代の名人にして門人甚だ多し、東都にて第一と称せられ」(撃剣叢談(そうだん))るに至った。とくに宝暦(ほうれき)年間(1751~64)一風時代から着手した防具の改良を進め、「鉄の仮面を制し、綿甲(小手)膊(はく)を覆い、剣長に準じて三尺四寸の竹刀(ちくとう)をもって実戦稽古(けいこ)を始めた」のが時流に投じ、沈滞した当時の剣術界に新風を吹き込んだ功績は大であった。
国郷の跡を継いだ三男徳郷は1777年(安永6)36歳で夭逝(ようせい)したが、近くの愛宕(あたご)下で道場を開いていた義子の正兵衛綱郷が、よく本家を補佐して流勢を広げた。こののち代々上州沼田藩土岐(とき)侯の師範役を勤めたが、幕末の8代笑兵衛恂郷は剣名が高く、9代を継いだ称郷(可笑人)や阿部右源次(うげんじ)、得能関四郎(とくのうかんしろう)らの名剣士を養成した。また綱郷の高弟藤川弥司郎右衛門近義(やじろうえもんちかよし)が1756年(宝暦6)下谷(したや)長者町に開いた町道場も地の利を得て門弟3000人といわれ、赤石郡司兵衛(ぐんじべえ)、井上八郎、酒井良佑(りょうすけ)らの剣客を輩出した。ついで赤石の門からは団野源之進、石川瀬平二(せへいじ)らが、さらに団野の道場からは、講武所剣術師範役となった男谷(おだに)精一郎信友が出て、島田虎之助(とらのすけ)、榊原鍵吉(さかきばらけんきち)、横川七郎ら、多くの逸材を育成した。こうして直心影流は全国諸藩に広がり、幕末剣道界の一大勢力を形成した。
[渡邉一郎]
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…幕末の剣聖といわれた剣術家。直心影流13代。兵学,槍術など武芸のほか,書画にも優れ,教養,人格とも抜群の風格ある剣客。…
…剣術同様多くの流派も生まれ,基本の型が考案された。戦国末期以来のおもな流派には,天道流,新当流,先意流,常山一刀流,正木流,直心影流,月山流,武甲流などがあり,現代にまで盛行している主要な2流は天道流と直心影流である。 明治以降薙刀は,男子の柔剣道とともに女子の武道として発展し,1904年大日本武徳会に薙刀部が設けられ,さらに学校体育に準正課として採用されて,とくに昭和10年代にその最盛期を迎えた。…
※「直心影流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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