天皇機関説排撃に向けて軍部と右翼が起こした運動。美濃部達吉(みのべたつきち)の天皇機関説は大正デモクラシーの風潮のなかで、議会中心の立憲政治を根拠づける憲法理論として明治憲法の正統的解釈の位置を占めるようになった。しかし1930年代に国家機関中の自由主義勢力を排撃する右翼の動きが台頭するなかで、美濃部達吉もその攻撃対象の1人としてねらわれるようになった。1935年(昭和10)2月18日、貴族院において菊池武夫は美濃部の天皇機関説を国体に背く学説として攻撃し、これを契機に機関説排撃運動が発生してくる。3月20日に貴族院は政教刷新決議を、また3月22日に衆議院は国体明徴決議をあげ、4月6日真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)陸軍教育総監は機関説排撃と国体明徴を訓示し、4月9日に内務省は美濃部の著書3冊を発禁処分とした。右翼団体と在郷軍人会を中心とする機関説排撃運動は、4月以降全国的な広がりをもって展開し、8月3日岡田啓介(けいすけ)内閣は国体明徴声明を発したが、軍部を背景とした排撃運動はやまず、10月15日政府は天皇機関説が国体に背く旨を明示した第二次国体明徴声明を発し、この声明を受けて軍部は運動の中止を指示して運動は終息した。この間、美濃部は江藤源九郎によって不敬罪で告発され、検察当局によって出版法違反の容疑による取調べを受けたが、美濃部の貴族院議員辞職によって検察当局は起訴猶予処分を決定した。またこのとき機関説論者として攻撃された一木喜徳郎(いちききとくろう)枢密院議長と金森(かなもり)徳次郎法制局長官も、翌36年には辞職を余儀なくされた。この国体明徴運動によって、憲法の立憲主義的解釈は否定され議会の地位低下に拍車がかかったが、国体明徴運動における活動によってさらに比重を増した軍部においても、この運動の途中で皇道派と統制派の争いは激化し、36年の二・二六事件に向けての伏線が形づくられるようになっていく。
[赤澤史朗]
『宮沢俊義著『天皇機関説事件』上下(1970・有斐閣)』▽『今井清一・高橋正衛編『現代史資料・国家主義運動 一』(1963・みすず書房)』
…1923年の〈国民精神作興詔書〉をうけて開始された全国的教化運動は,すでに最初から,〈国体観念を明徴にする〉というスローガンを掲げていた。こうした二つの方向は,満州事変以後の戦時体制化の過程で,合体しながら攻撃的性格を強め,35年には,憲法解釈としての天皇機関説排撃を突破口として,個人主義,自由主義をも反国体的なものとして否定しようとする国体明徴運動をひき起こすこととなった。まず35年2月の第67議会で貴族院の菊池武夫が美濃部達吉(当時東京帝大教授,貴族院議員)の学説をとりあげ,統治権の主体を国家とし,天皇をその国家の最高機関とする天皇機関説は,天皇の絶対性を否定し,天皇の統治権を制限しようとする反国体的なものだ,として攻撃を開始,これに呼応して院外でも軍部の支持のもとに在郷軍人会や右翼団体などの運動が全国的に展開されることとなった。…
…そして,議会の参与しうべき政務の範囲を国務大臣の職務に属する国家事務の範囲と同一とすることは可能だと論じた。この学説は,大正期を通じて学界に定着したが,満州事変以後のファッショ的風潮の高まりとともに右翼勢力からの攻撃にさらされ,1935年の国体明徴運動の結果,機関説とみられた学者は,憲法学担当の地位をおわれた。国体明徴問題【古屋 哲夫】。…
※「国体明徴運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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