矢田部村(読み)やたべむら

日本歴史地名大系 「矢田部村」の解説

矢田部村
やたべむら

[現在地名]東住吉区矢田やた一―四丁目・公園南矢田こうえんみなみやた一―二丁目・てる丘矢田おかやた一丁目・同三丁目・住道矢田すんじやた一丁目・同三丁目など

丹北郡に属し、住吉郡鷹合たかあい村の南にある。中央をこま川が北流し、北の村境を東西に八尾やお街道が通る。「新撰姓氏録」(河内国神別)に「矢田部首 同神六世孫伊香我色雄命之後也」とみえる矢田部氏との関係が考えられる。同神とは神饒速日命。延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)に載る山城石清水いわしみず八幡宮寺領矢田庄の所在地の一に「壱条矢田部拾参坪伍段」とみえる。なお、京都東寺(教王護国寺)蔵の真言口伝勘誤集の保延二年(一一三六)一二月付奥書に「摂津国八田部平野寺御房」、年月日未詳の住吉神領年紀(続左丞抄)に住吉社(現住吉区)御供田のうちとしてみえる「矢田部」、「後法興院雑事要録」文明一五年(一四八三)の項ほかに上使路銭などを負担したとみえる「矢田」は当地である可能性がある。


矢田部村
やたべむら

[現在地名]太子町矢田部、姫路市勝原区大谷かつはらくおおたに

立岡たつおか村の東に位置する。矢田辺村とも記す。長谷はせ(現奈良県桜井市)開基の一人徳道は「扶桑略記」神亀四年(七二七)三月三〇日条では揖保郡の俗姓辛矢田部氏、「峯相記」では矢田部村の俗名武吉丸とあり、当地の出身と思われる。永禄一一年(一五六八)九月二一日の円山利真置文(安田文書)には矢田部流田ながれだ分、本役三斗・段銭一五〇文とあり、当地にいかるが庄の豪族円山氏領があった。


矢田部村
やたべむら

[現在地名]佐伯町矢田部

吉井川の西方大王たいおう山南方に集落がある。東は寺山てらやま村、西は宇屋うや村。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)佐井木さいき庄矢田部村とある。寛永備前国絵図では高二二八石余。「備陽記」では田畠一六町一反余、家数四四・人数二四三、岡山城下京橋きようばしまで道程七里。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」によれば、直高二九五石余、家老土倉四郎兵衛の給地。


矢田部村
やたべむら

[現在地名]波崎町矢田部

東は鹿島灘、西は利根川に臨み、北は須田すだ新田・太田おおた新田、南は東下とうしも村。弘安大田文に「同宿内矢田部十五丁四段小」とあり、鹿島郡南条下宿に属していた。応安年間(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)には「や多への津あかし知行分」と記され、津は明石氏が支配した。天正一九年(一五九一)佐竹義宣の南方進出に伴い佐竹氏一族の東義久の知行地となり(水戸市史)、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)には「百十壱石三斗九升 や田へ」とある。


矢田部村
やたべむら

[現在地名]氷見市矢田部

十三じゆうさん谷の平野部、深原ふかわら村と飯久保いくぼ村の間より西に深く入った谷間に位置し、北は粟原あわら村、北東は上久津呂かみくづろ村。集落は谷間奥の丘陵の裾野南側にあり、本村と深原村集落との中間点に垣内の下矢田部がある。正保郷帳の高七四四石余、田方三九町九反・畑方九町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高七八五石・免六ツ七歩、小物成は山役三七七匁・蝋役四匁(三箇国高物成帳)。寛延二年(一七四二)には草高六七一石(ほかに元禄九年検地引高一一四石)・免六ツ七歩(うち四歩八厘明暦二年手上免)、百姓四四・頭振一二・ほか二(「高免等書上帳」折橋家文書)


矢田部村
やたべむら

[現在地名]鈴鹿市神戸かんべ一丁目・同三丁目・同八―九丁目・矢橋やばせ一―二丁目

神戸城下の東方一帯にある広い水田地帯で北は須賀すか村、南は矢橋村に接する。戦国時代の北畠家臣帳に「矢田部掃部亮 神戸城従騎」とある。「神戸録」にもこの名があり、神戸家の家臣のいた所であろう。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「三百五拾八石八斗九升 屋多部村」とある。


矢田部村
やたべむら

[現在地名]香寺町矢田部

谷山新たにやましん村の東、相坂あいさか村の北に位置し、矢田部川の上流域に立地する。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方二一八石余・畑方五九石余、「芝山有・新田有」と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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