石恪(読み)セキカク

デジタル大辞泉 「石恪」の意味・読み・例文・類語

せき‐かく【石恪】

中国五代後蜀ごしょく画家成都四川省)の人。あざなは子専。水墨による道釈画人物画に長じ、奔放な筆致特色とする。模本とされる「二祖調心図」が伝存。せっかく。生没年未詳。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「石恪」の意味・読み・例文・類語

せき‐かく【石恪】

  1. 中国、五代の後蜀の画家。字(あざな)は子専(しせん)。成都(四川省)の人。生涯大半を後蜀に仕え、後蜀滅亡後、宋都汴京(べんけい)相国寺壁画を描いた。風刺を含んだ画風で、特に仏画にすぐれる。生没年未詳。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「石恪」の意味・わかりやすい解説

石恪
せきかく

生没年不詳。中国、蜀(しょく)(10世紀)の画家。唐末五代の騒乱期に四川(しせん)省にあった蜀では、唐風絵画が継承され、水墨画が展開しつつあったが、石恪はその代表的水墨画家の1人。名は子専。成都の人で、初め火の画で著名な張南本(ちょうなんぽん)に師事した。蜀が平定されて宋(そう)となると、960年ごろ汴京(べんけい)(河南省開封市)に出て、相国寺の壁画を描いた。太祖(たいそ)の画院の職を授けられたが断り、許されて蜀に帰る途中に没した。道釈(どうしゃく)人物画を描き、正統的な画風をもっていたと思われるが、「筆墨縦逸で規矩(きく)を専(もっぱ)らにせず」と伝えられており、六朝(りくちょう)・唐以来の伝統に依拠しながら、表意性の強い水墨の墨技を駆使して人物画の形相を変えて宋代絵画の一源泉をなしたと考えられている。石恪の作品として『二祖調心(にそちょうしん)図』(東京国立博物館)が伝存するが、これは粗筆で衣文(えもん)を荒々しく一気に刷(は)いた水墨人物画で、石恪画風を伝える模本と考えられ、当時の画風を知る好作例となっている。

[星山晋也]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「石恪」の意味・わかりやすい解説

石恪 (せきかく)
Shí Kè

中国,五代,蜀の画家。生没年不詳。字は子専。成都(四川省)の人。蜀の滅亡後,宋都汴京(べんけい)(開封)に赴き,相国寺の壁画制作に従事し,画院の職を授けられたが辞して帰郷した。いわゆる粗筆人物が得意で,その逸格的画風で鬼神・道釈画を,また風刺的な作品をよく描いた。師は火の画家張南本であり,現存する石恪画の模本《二祖調心図》の原本は前蜀の乾徳1年(919)の制作と考えられ,10世紀中葉がその活躍期と推定される。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石恪」の意味・わかりやすい解説

石恪
せきかく
Shi Ke

中国,五代末,宋初の画家。成都 (四川省) の人。字は子専。火画の名人,張南本を師とし道釈画を描いたが,画法は多分に逸格で肉太の粗放な筆致を主調とし,面部,手足だけを細かく描く水墨画法を得意とした。後蜀の滅亡後,開封に移り奉命して相国寺壁画の制作にあたった。宋の画院に職を与えられたが受けずに帰郷。石恪筆として伝わる『二祖調心図』2幅 (東京国立博物館) は南宋末の模本であるが,石恪の水墨画法を推知できる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「石恪」の意味・わかりやすい解説

石恪【せきかく】

中国,五代の蜀(10世紀)の画家。生没年不詳。四川省成都の人。蜀滅亡後,宋の画院に入ったが,間もなく辞して郷里に帰ったと伝える。伝称作品の《二祖調心図》は禅僧の飄逸(ひょういつ)な姿を大胆な変形と奔放な筆致で描いたもので,宋初の水墨画の様式を示す。

石恪【せっかく】

石恪(せきかく)

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android