祐尊(読み)ゆうそん

朝日日本歴史人物事典 「祐尊」の解説

祐尊

没年:応永19.10.5(1412.11.9)
生年:元徳1(1329)
南北朝室町時代初期の東寺の僧。名字高井,上総と称した。父は仁和寺華厳院法印弘雅の青侍法橋定祐。文和1/正平7(1352)年に東寺領播磨国矢野荘(兵庫県相生市)例名 に赴任し,学衆方所務代官として荘務の現地責任者となる。守護方との巧みな交渉により押領された所領の回復を果たし,法眼にまで昇進するが,自領の名田を拡大するなどの強引な荘経営が反発を呼び,永和3/天授3(1377)年1月の百姓などの強訴によって代官を解任される。しかし帰洛後,永徳3/弘和3(1383)年には東寺雑掌に任ぜられて東寺の渉外責任者となり,室町幕府・守護との訴訟や交渉の前面に立って長く活躍した。晩年は,足利義満の寵童御賀丸に仕えた子の祐舜法橋の負債を負わされて極度の貧困に陥り,その死後は妻が荼毘の費用の援助を東寺に求めたほどだった。<参考文献>伊藤俊一「高井法眼祐尊の一生―南北朝~室町前期における東寺の寺領経営と寺官―」(『日本史研究』354号)

(伊藤俊一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「祐尊」の解説

祐尊(3) ゆうそん

1329-1412 南北朝-室町時代の僧。
元徳元年生まれ。東寺領播磨(はりま)(兵庫県)矢野荘の代官。永和2=天授2年荘園の収取基準をきめたが,翌年惣荘一揆(そうしょういっき)がおこり,その責任をとわれて罷免された。のち最勝光院,宝荘厳院公文(くもん)となる。応永19年10月5日死去。84歳。通称は上総房(かずさぼう),高井法眼。

祐尊(1) ゆうそん

1147-1222 平安後期-鎌倉時代の僧。
久安3年生まれ。真言宗。京都仁和(にんな)寺で仁証の弟子となる。建暦(けんりゃく)3年東寺長者。同年神泉苑の雨乞いの修法で霊験をあらわした。権大僧都(ごんのだいそうず)。貞応(じょうおう)元年5月27日死去。76歳。

祐尊(2) ゆうそん

1293-? 鎌倉時代の画家。
永仁(えいにん)元年生まれ。伊予法眼(いよほうげん)尊賢らとともに,正和(しょうわ)2年(1313)遠江(とおとうみ)(静岡県)横須賀撰要寺の曼陀羅(まんだら)をえがいた。大弐公祐尊ともいう。

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