雪村友梅(読み)セッソンユウバイ

デジタル大辞泉 「雪村友梅」の意味・読み・例文・類語

せっそん‐ゆうばい〔‐イウバイ〕【雪村友梅】

[1290~1347]鎌倉末期から南北朝時代臨済宗の僧。越後の人。一山一寧いっさんいちねい参禅。元に渡り、帰朝後は万寿寺建仁寺南禅寺などに歴住。著「岷峨みんが集」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「雪村友梅」の意味・わかりやすい解説

雪村友梅
せっそんゆうばい
(1290―1346)

南北朝時代の臨済(りんざい)宗一山(いっさん)派の僧。越後(えちご)(新潟県)白鳥の人。鎌倉の一山一寧(いっさんいちねい)に参じ、18歳で入元(にゅうげん)して諸山を歴訪し、州(とうしゅう)の獄につながれたり、長安や四川(しせん)にあること20年に及ぶ。1328年に文宗(在位1328~1329、1329~1332)の勅により翠微(すいび)寺に住し、宝覚真空(ほうがくしんくう)禅師の号を賜る。翌1329年に帰国、信濃(しなの)(長野県)慈雲寺、徳雲寺、山城(やましろ)(京都府)西禅寺、播磨(はりま)(兵庫県)法雲寺などを開創、京都・万寿寺、建仁寺に歴住し、1346年(興国7・貞和2)12月1日57歳で寂。代表的な五山文学僧で、雲渓支山(うんけいしざん)(1330―1391)、太清宗渭(たいせいそうい)(1321―1391)らの弟子があり、『語録』『岷峨(びんが)集』の著がある。

[石川力山 2017年8月21日]

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朝日日本歴史人物事典 「雪村友梅」の解説

雪村友梅

没年:貞和2/正平1.12.2(1347.1.14)
生年:正応3(1290)
鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した臨済宗の僧。越後(新潟県)白鳥の人。中国僧一山一寧の法を嗣ぐ。詩偈に秀で,元朝において栄えた金剛幢下という流派に早くから参じ,竜山徳見と共に日本禅林文学(五山文学)の発生に大きく関与した。また趙子昂筆法もよくし,直筆の「梅花詩」が北方文化博物館に所蔵されている。幼少のときに鎌倉にて一山の侍童となり,「友梅」の名を付与された。徳治2(1307)年,18歳で元(中国)に渡り,諸方の祖跡をことごとく巡拝,禅僧だけではなく,廟堂の士大夫などとも活発に交流した。また,詩作にもはげみ,在元中に詩文集『岷峨集』を著している。在元期間は23年の長期にわたる。その間,間諜嫌疑を受けて斬罪に処せられようとするが,無学祖元の「臨剣頌」を唱えて難を免れたという。大赦ののちには,認められて長安の翠微寺の住持となり,元の朝廷より宝覚真空禅師の号を特賜された。元徳1(1329)年5月に帰国。翌年,師の一山を嗣いで諏訪(長野県)慈雲寺の住持となる。康永2(1343)年には,朝廷および足利尊氏,直義らの招きに応じて京都五山の万寿寺に入院,次いで貞和1(1345)年建仁寺の第30世となる。このころ,虎関師錬とも交友を持ち,師錬の『元亨釈書』選述の機縁を作った。貞和3年11月法要中に倒れ,翌月示寂。説法には常に『円覚経』を講じたという。<著作>『宝覚真空禅師語録』<参考文献>『雪村大和尚行道記』

(石井清純)

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改訂新版 世界大百科事典 「雪村友梅」の意味・わかりやすい解説

雪村友梅 (せっそんゆうばい)
生没年:1290-1346(正応3-正平1・貞和2)

鎌倉末期から南北朝にかけての五山禅僧。幻空と号す。越後国白鳥郷に生まれ,侍童として鎌倉建長寺の一山一寧(いつさんいちねい)の室に入る。1306年(徳治1)入元,古林清茂(くりんせいむ)をはじめ,多くの禅僧に歴参し,また趙子昂(ちようすごう)に筆法を学んだが,一時,間諜の嫌疑で投獄され,苦難をなめた。在元22年にして帰朝した。播磨に法雲寺を開いたほか,建仁寺,南禅寺などに住した。五山文学の先駆者の一人で,詩文集《岷峨(びんが)/(みんが)集》がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「雪村友梅」の意味・わかりやすい解説

雪村友梅
せっそんゆうばい

[生]正応3(1290)
[没]正平1=貞和2(1346).12.25.
鎌倉時代末期~南北朝時代の臨済宗の僧。越後白馬の人で,法を一山一寧に継ぎ,のちに建仁寺で参禅の余暇に儒書を学び,さらに『荘子』に通じる。 18歳のときに入元し叔平和尚に謁したが,誤解を受けて危うく斬刑にあうところを助かり西蜀に流された。 24年間中国にとどまり,帰朝後は信濃の慈雲寺に入り徳雲寺を開き,また赤松則祐の帰依により播磨に法雲,宝林の両寺を開き,のち京都の建仁寺や南禅寺に住した。高尚温和のうちに強い意志の持主で,中国でその人格を崇拝された。在元中の詩集に『岷峨 (みんが) 集』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「雪村友梅」の解説

雪村友梅 せっそん-ゆうばい

1290-1347* 鎌倉-南北朝時代の僧,五山文学者。
正応(しょうおう)3年生まれ。臨済(りんざい)宗。一山一寧(いっさん-いちねい)の法をつぐ。18歳で元(げん)(中国)にわたる。元朝より宝覚真空禅師の号をおくられ,嘉暦(かりゃく)4年(1329)帰国。播磨(はりま)(兵庫県)法雲寺,京都万寿寺,建仁寺などの住持となる。貞和(じょうわ)2=興国7年12月2日死去。57歳。越後(えちご)(新潟県)出身。俗姓は一宮。別号に幻空。詩文集に「岷峨(みんが)集」など。

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世界大百科事典(旧版)内の雪村友梅の言及

【赤松氏】より

…赤松氏の播磨国支配機構においては上位守護代と下位守護代という特異な機構があり,赤松氏は小河氏を上位守護代,国衙目代,納所(なつしよ)などの重要な地位につけ,領国内諸所領の大田文記載図田数の確定とそれに基づく諸種の段銭・公役の配符,催徴などの重要な権限を分掌させている。赤松氏は代々一山派の雪村友梅とその系統の禅僧に深く帰依し,播磨に法雲寺,宝林寺など禅寺を創建して外護した。【岸田 裕之】。…

【漢詩文】より

…【川口 久雄】
【中世】
 中世の漢文学の主流は,何といっても五山禅僧の作品である。鎌倉時代の作者には虎関師錬(こかんしれん),雪村友梅(せつそんゆうばい),中巌円月(ちゆうがんえんげつ)がある。虎関師錬は一山一寧(いつさんいちねい)より学んだので,やや古風な作風を有するが,雪村は在元22年の長きにわたり,中国人の文脈句法を体得した人であり,中巌円月は在元の期間は雪村友梅ほど長くないが,その文脈句法の体得は雪村以上で,とくに四六文の学習に力を注いだ人である。…

【留学】より

…しかし,1299年(正安1)に一山一寧(いつさんいちねい)が元の国使として来朝したころから,日中両国間の往来もようやく活況をとりもどすようになり,14世紀初頭に竜山徳見が留学したのをはじめとして,1326年(嘉暦1)の40人,44年(興国5∥康永3)の数十人,51年(正平6∥観応2)の18人などの集団留学もあって,こののち明初にかけて約70年間ほどは,日本の留学僧の往来がもっとも盛んな時期であった。彼らは各地の名僧をたずねて,熱心に参禅修行をつみ,しかも,46年にわたって留学生活を送った竜山徳見を筆頭に,30余年の約庵徳久,24年の無涯仁浩,23年の椿庭海寿,22年の雪村友梅,21年の復庵宗己,古源邵元,古鏡明千,20年の無我省吾,17年の友山士偲,15年の大拙祖応などのように,きわめて長期間にわたって本格的に大陸禅を学んだものが多かった。その結果,留学僧たちのなかにはその業績を認められて,たとえば,北京に大覚寺を開いた東洲至道,長安の翠微寺に住した雪村友梅,洪州隆興府の兜率寺に住した竜山徳見,秀州嘉興府の円通寺に住した約庵徳久,鄞(ぎん)県の福昌寺に住した椿庭海寿,羅陽の三峰寺に住した大初啓原などのように,大陸の名刹の住持などの要職を勤めたものも少なくない。…

※「雪村友梅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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