改訂新版 世界大百科事典 「矢野荘」の意味・わかりやすい解説
矢野荘 (やののしょう)
播磨国の中世東寺領荘園の一つ。現在の兵庫県相生市矢野町地区,若狭野町地区から両地区を合併する以前の旧相生市内に及ぶ範囲にあった。もと久富保と称し,11世紀末に播磨国赤穂郡大掾秦為辰が開発した私領である。秦氏はこれを修理大夫藤原顕季に寄進,それが顕季の孫で鳥羽上皇の皇后美福門院得子に伝えられ,1136年(保延2)鳥羽院庁牒によって正式に立券,ここに美福門院領として矢野荘を称することとなった。美福門院は御願寺として歓喜光院を創建,矢野荘はその所領となったが,美福門院の没後はその子八条院暲子に伝えられた。67年(仁安2)美福門院の乳母伯耆局は矢野荘領家職を賜るが,このとき矢野荘の一部を歓喜光院の寺用にあてることとした。これが矢野荘別名(べちみよう)で,残る部分は例名(れいみよう)と称せられた。別名は1300年(正安2)亀山上皇より南禅寺に寄進され,その後長く南禅寺領としてその支配を受けた。いっぽう例名は八条院(歓喜光院)を本家,伯耆局を領家とする荘園となったが,領家職は伯耆局の孫で似絵の名手といわれた藤原隆信の子孫に伝えられた。1297年(永仁5)には領家藤原氏と地頭海老名氏との間に例名の下地中分(したじちゆうぶん)が行われ,東方地頭方と西方領家方に両分された。
1313年(正和2)12月7日,後宇多上皇は東寺興隆の目的で山城国拝師荘などとともに矢野荘例名を東寺に寄進,さらに17年(文保1)3月18日には〈別納〉と称せられた例名内の重藤名ならびに那波,佐方も東寺に寄せた。かくして東寺の矢野荘経営が本格化すると,当荘の開発領主秦氏の後裔で,重藤名地頭職,例名公文職を有した寺田法念の悪党行為が目だつようになる。これとともに前領家藤原冬綱も当荘の返還を求め,一時それが認められるなど,鎌倉末期の東寺の矢野荘支配はかならずしも順調には行われなかった。しかし33年(元弘3)建武政権の成立とともに,7月には矢野荘例名が,8月には例名内重藤名,那波,佐方が東寺に安堵された。ついで北朝からは36年(延元1・建武3)12月8日矢野荘例名が安堵され,38年(延元3・暦応1)12月29日,例名内重藤名も東寺に返付された。南北朝初期にはたびたび当荘の土地台帳が作成され,また48年(正平3・貞和4)には寺田氏が矢野荘に関する重代相伝の重書を東寺に売っているが,これらは東寺の矢野荘支配の確立を意味するものである。もちろん南北朝期には武士の濫妨がしばしばみられるが,以後那波・佐方両浦を除いた矢野荘例名は,ほぼ完全な形で東寺領となり,さらに74年(文中3・応安7)には武士による矢野荘濫妨の拠点となっていた例名公文職も,守護赤松義則がこれを祈禱料所として東寺に寄進,2年後には当荘の毎年の年貢は250石弱と確定した。室町時代における東寺の当荘支配は比較的安定していたが,戦国時代になると他の荘園と同様,漸次東寺領荘園としての実は失われていった。
執筆者:上島 有
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