神崎荘(読み)かんざきのしょう

百科事典マイペディア 「神崎荘」の意味・わかりやすい解説

神崎荘【かんざきのしょう】

肥前国神崎郡(現,佐賀県神埼郡神埼市・吉野ヶ里町)にあった荘園で,荘域は一部を除きほとんど神崎郡全域に及ぶといわれる。836年神崎郡空閑地690町が勅旨田となり,皇室領荘園となる契機となった。《御堂関白記》長和4年(1015年)7月15日条に神崎御荘とみえ,このときすでに皇室領荘園として成立していた。その後,後院領・院領として相伝され,平安時代末期には宋船が頻繁に来着,平氏日宋貿易の独占を図っている。鎌倉時代になると後白河院領となる。承久の乱後,幕府によって没収され,初めて地頭職が設けられ三浦泰村が補任された。宝治合戦後は闕所地となったようだ。史料には鎌倉時代を通じ院領としてみえるが,実際には地頭職設置をもって院領としての荘務の進止は終わったものと考えられる。1289年幕府は当荘を蒙古合戦勲功賞の絶好配分地として多数の御家人に配分した。建武新政府はこの勲功賞地を収公,再び闕所の状態となったが,南北朝期になると,足利氏は当荘を勲功賞地として自由に没収・配分を行っている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神崎荘」の意味・わかりやすい解説

神崎荘
かんざきのしょう

肥前(ひぜん)国神崎郡(佐賀県神埼(かんざき)市神埼町)に置かれた皇室領荘園。836年(承和3)空閑地(未墾地)690町が勅旨田(ちょくしでん)となったのが荘園成立の契機であるが、その後、後院(ごいん)領として相伝され、平安末期には日宋(にっそう)貿易の拠点になっていた。鎌倉幕府成立期には後白河院(ごしらかわいん)領であったが、1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱後、幕府に没収された。47年(宝治1)の宝治(ほうじ)合戦後、ふたたび後嵯峨院(ごさがいん)領となったが、ほとんど不知行(ふちぎょう)の状態に置かれていたので、蒙古(もうこ)襲来後、恩賞地として勲功のあった鎮西御家人(ちんぜいごけにん)に分割配分された。1292年(正応5)の「肥前国河上宮造営用途支配惣田数注文(かわかみぐうぞうえいようとしはいそうでんすうちゅうもん)」には「院御領神崎庄(しょう)三千丁」とみえ、肥前国最大の荘園であったことがわかる。しかしその内部寺社領が複雑に入り組み、そのうえ御家人に恩賞地として分割配分されたことにより、複雑な支配関係が形成されており、南北朝動乱期に入るとほとんど荘園としての機能は失われていた。

[瀬野精一郎]

『瀬野精一郎編『肥前国神崎荘史料』(1975・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「神崎荘」の意味・わかりやすい解説

神崎荘 (かんざきのしょう)

肥前国神崎郡(現,佐賀県神埼市,神埼郡吉野ヶ里町)にあった荘園。836年(承和3)神崎郡空閑地690町が勅旨田とされ,のちに神崎荘が皇室領荘園となる契機となった。神崎荘という名称の初見は《御堂関白記》長和4年(1015)7月15日条で,これ以前に皇室領荘園として成立していた。後院領・院領荘園として相伝され,日宋貿易が盛んな平安時代末期には,多くの宋船が来着した。平氏政権下ではその支配下にあったが,鎌倉幕府の成立によって後白河院領荘園として現れる。承久の乱後,鎌倉幕府によって没収され,三浦泰村が地頭に補任されたが,1247年(宝治1)の宝治合戦で三浦氏が滅亡し,闕所(けつしよ)地となった。89年(正応2)モンゴル合戦勲功賞として配分されたが,92年肥前国一宮河上宮造営用途支配田数注文によれば,院御領神崎荘3000丁とあり,肥前国の荘園としては最も広大であった。建武新政府は,モンゴル合戦勲功地として配分された所領を没収した。その後発生した南北朝動乱は皇室領としての機能を事実上停止させ,南北両勢力によって勲功のあった武士に恩賞地として給付された。
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世界大百科事典(旧版)内の神崎荘の言及

【肥前国】より

…【井上 辰雄】
【中世】

[荘園]
 1197年(建久8)7月の〈肥前国大田文〉には,田数1万4332丁とあり,1292年(正応5)8月16日河上宮造営用途支配惣田数注文には1万7918丁9反とある。その大半は権門勢家(けんもんせいか)の荘園となっており,基肄郡には小倉(おぐら)荘,神辺(こうのべ)荘,薗部荘,曾禰崎(そねさき)荘,姫方荘,養父郡には瓜生野(うりうの)保,義得(ぎとく)保,倉上荘,幸津(さきつ)荘,幸津新荘,鳥栖(とす)荘,奈良田荘,中津隈(なかつくま)荘,三野原荘,村田荘,養父荘,家嶋荘,三根郡には綾部荘,石井荘,下野荘,米多(めた)荘,矢俣(やまた)保,神崎郡には神崎荘,石動(いするぎ)荘,三津(みつ)荘,宮人(みやと)保,佐嘉郡には牛島荘,鹿瀬(かせ)荘,蠣久(かきひさ)荘,河副(かわそえ)荘(南・北),巨勢(こせ)荘,佐嘉荘,島崎荘,防所(ぼうしよ)保,西防所保,三重屋荘,米納津荘,安富荘,与賀(よが)荘,成道寺荘,小城郡には赤自荘,大楊(おおやなぎ)荘,砥川保,晴気(はるけ)荘,福所荘,藤織荘,松浦郡には相知(あいち)荘,生属(いきつき)牧,宇野御厨,大野荘,鏡荘,柏島牧,草野荘,島(のがきしま)牧,庇羅(ひら)牧,松浦荘,見留加志(みるかし)荘,御厨(みくりや)荘,杵島郡には大町荘,杵島荘,須古荘,太田(ただ)荘,墓崎荘,中津荘,長島荘,藤津郡には鹿島牧,能古見荘,藤津荘,塩田荘,彼杵郡には彼杵荘,高来郡には伊佐早荘,髪白(かみしろ)荘,千千岩(ちぢいわ)荘,早埼牧,大豆津別符,豆津別符,山田荘,串山荘,有馬荘,東郷荘,かや荘などがあり,このほか所在郡名不詳の荘園として,荒木田荘,進荘,香登荘,黒嶋荘,原田荘,南里荘などがある。なかでも皇室領神崎荘は3000町にも及ぶ肥前国最大の荘園であり,承久の乱(1221)後幕府に没収され,三浦泰村が地頭に補任されていたが,宝治合戦(1247)による三浦氏の滅亡後は,ふたたび皇室領として伝領されることになり,1272年(文永9)後嵯峨上皇より後深草上皇に譲られている。…

※「神崎荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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