日本の城がわかる事典 「福与城」の解説 ふくよじょう【福与城】 長野県上伊那郡箕輪町にあった平山城(ひらやまじろ)。長野県指定史跡。鎌倉時代の創建ともいわれるが、築城年代は不明。戦国時代には諏訪大社大祝の諏訪氏分流の藤沢氏の居城だった。箕輪南小学校近くの天竜川東岸の河岸段丘につくられ、城域は標高710m、比高約40mにあり東西約330m、南北約440mの規模。上下2段の郭からなる本城と北城・南城の3つで構成されていた。『高白斎記』によれば、1542年(天文11)に、甲斐の武田晴信(武田信玄)は諏訪侵攻を開始し、高遠(長野県伊那市)の高遠頼継らと結んで、諏訪宗家の諏訪頼重を滅ぼした。しかし、その後に諏訪の統治・領有をめぐり武田氏と高遠氏が対立。このとき、福与城主の藤沢頼親は高遠頼継に与して、武田氏と敵対した。武田氏は同年9月25日に高遠頼継を撃破し、翌26日に武田方の駒井高白斎が福与城を包囲したことから、頼親は武田方に降伏し甲府へ出仕した。しかし、頼親はその直後に武田氏から離反した。1544年(天文13)11月、武田氏は福与城を攻め、天竜川をはさんだ対岸で両軍が交戦したが、武田方は福与城を落とせず撤退している。翌45年(天文14)4月、信玄は高遠頼継と藤沢頼親攻めの軍を起こした。高遠頼継は居城の高遠城を捨てて逃亡し、のちに降伏したが切腹させられている。武田氏は引き続き福与城を攻めた。城主の頼親は林城の小笠原長時の援軍を得て、約50日間にわたり武田氏の攻勢をしのいだが、同年6月に降伏し福与城を開城した。武田氏は福与城を接収後、これを焼き払った。1549年(天文17)、北信濃の村上義清は上田原合戦で武田方を破ると、小笠原長時や藤沢頼親らに決起を呼びかけ、これにより頼親は武田氏から再び離反したが、再び降伏・臣従した。この後、信玄は箕輪城を取り立てて改修を行っている。この箕輪城が福与城であるという説と、天竜川対岸にあった別の箕輪城であるとの説がある。その後、頼親は上洛し、三好長慶に仕えたといわれるが、長慶の死後、信濃の旧領に戻り田中城を築いて居城とした。1582年(天正10)3月に武田氏が滅亡すると、頼親は福与城を奪還した。同年の本能寺の変で織田信長が死去すると北条氏直に臣従しようとしたために、徳川家康家臣の保科正直に攻められ、頼親は田中城において子息の頼広とともに自害している。現状、城跡は当時の遺構をよく残しており、郭・土塁・空堀などが現存する。ただし南城跡は耕作地となっており土塁や虎口などはほとんど残っていない。JR飯田線木ノ下駅からバス、南小学校下車後、徒歩約15分。県道19号沿いに城址入口の看板がある。◇箕輪城とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報