福山村(読み)ふくやまむら

日本歴史地名大系 「福山村」の解説

福山村
ふくやまむら

[現在地名]福山町福山

現福山町域のほぼ中央部と西方海岸部を占める。西部は狭い海岸低地(下場)、東部は火山灰台地(上場)からなる。北は敷根しきね上之段うえのだん(現国分市)、東は福山郷佳例川かれいがわ村と恒吉つねよし坂元さかもと(現大隅町)。福山郷の麓があり、地頭仮屋は海岸部ふもと地区の現福山小学校の地にあった。近世初期にはめぐり村と称し、寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では廻村は高六三四石余。元禄国絵図でも同村名・同高だが、ほかに廻村のうちとして福山村を記す。天保郷帳でも廻村。旧高旧領取調帳には福山村とあり高一千三一〇石余。明和六年(一七六九)には検地・門割が実施されたとみられる(「鹿児島県協力高事件整理書」黎明館蔵影写本)。門数は大廻おおめぐりは一五、南園みなみそのは七、小廻こめぐりは一五(福山町郷土誌)。当村南園塩屋三六石余は慶長二〇年(一六一五)には北郷(都城島津)家領となっており(「知行目録」都城島津家文書)、明暦元年(一六五五)の御支配所知行目録(同文書)では大廻村一四五石余が同家領となっていた。北方海岸部は福山浦と称され、文化三年(一八〇六)改の諸浦御奉公並万上納物定(列朝制度)によれば浦男女五五四人、浦水手役三〇人立・雇水手役三〇人立、魚運上銀二〇目・漁師銀四匁。

福山村
ふくやまむら

[現在地名]松元町福山

上谷口かみたにぐち村の北、起伏の多い丘陵上に立地する。西流する福山川流域に水田が開け、かみなかしもの三集落がある。

〔中世〕

正中二年(一三二五)四月一九日の山田道慶譲状(山田文書)伊集院のうち福山村とみえ、山田宗久(道慶)が相伝所領である福山村内田地などを嫡子忠能(諸三郎丸)に譲与している。福山村の田地は河水によって崩され,不安定な耕地が多かったが、反面、園は新たに開発され田となった所もあった。元徳元年(一三二九)一二月九日,道慶は大隅式部三郎入道道覚に福山村内柳田やなぎだ二反の地など一町四反と古江園など二ヵ所を本銭返しで質に入れたが、道覚が難色を示したため相論となり、柳田二反は永代道覚に与えることで和解が成立している(「沙弥道覚代重俊和与状」山田文書)。同二年、上野平九郎入道禅意は福山田を含む三町余は久得きゆうとく(久徳名)のうちで、警固役を果すべき惣領主備前房隆賀が勤仕しなかったため訴訟となり、隆賀は禅意が庶子分警固役を徴収することを認めたが、庶子の道慶が役を抑留していると訴えた。

福山村
ふくやまむら

[現在地名]三朝町福山

四十曲しじゆうまがり村の北方に位置し、竹田たけだ川の支流福本ふくもと川の源流にあたる。文政一一年(一八二八)同村から分村・独立した村。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三五石余、竈数一三。本免二ツ五分。開発は郡奉行峯郷うなごうを開墾適地と認めたことに始まり、文化一三年(一八一六)久原くばら村安藤孫三郎が新田師と鍬入れを行い、同地を字鶴が平と改め新開にかかった。久米くめ広瀬ひろせ(現倉吉市)村方より支障の申入れもあったが開墾は進められ、翌一四年に「四十曲村傍示峯郷」の開墾許可がおりた(在方諸事控)。翌一五年四十曲鉄山や久米郡留海とどみ(現倉吉市)などからの入植が進み、入百姓九株の人別改がなされ、一株につき秋米四石、都合三六石の扶助米が決定された(同書)

福山村
ふくやまむら

[現在地名]邑久町福山

現邑久町西端、吉井川左岸にあり、東は大富おおどみ村、南は射越いこし(現岡山市)、西は吉井川を挟んで久保くぼ(現同上)。福山渡があった。「備陽記」によればもと上道郡に属し、「糟村」と称したというが、邑久郡への編入および村名替えの時期は不明。寛永備前国絵図に福山村とみえ、高六七二石余。「備陽記」では田畑四四町一反余、家数七七・人数四三六、「小猟船ヨリ五端帆渡シ船共四艘アリ」とみえる。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高八九一石余、うち四一一石余が蔵入、残りは家臣七名の給地。反別は田二四町五反余・畑一九町九反余、家数五六・人数二六四、牛二二、八幡宮一(社領八斗)、社方家一、渡守は善五郎で守給一石、樋一〇、石橋七・土橋八、高札一、池一、船一九(五端帆一・小猟船三・その他一五)

福山村
ふくやまむら

[現在地名]倉吉市福山

小鴨おがも川左岸、石塚いしづか村の南に位置する。古くは上松神かみまつがみ村と称していたが、文政一二年(一八二九)福山村と改めた(藩史)。拝領高は二三八石余、本免は五ツ二分。倉吉荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二六〇石余、竈数二七、村内に松神大明神・八王子権現三宝荒神を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二七〇石余、竈数二二。藪役銀二匁・山役米一石一斗四升が課されていた(藩史)。曹洞宗明現みようげん寺は慶長元年(一五九六)守彭による開山、のち洪水により伽藍流失し、明和八年(一七七一)現在地に再建したとされるが(倉吉市史)、「在方諸事控」によると、享保一四年九月には連日の大雨により「倉吉出水、新御蔵並妙玄寺土手切る」災害となり、明和九年には明現寺が従来の寺地がよくないので同寺所持畑(四畝余)への建替えを願出て許されている。

福山村
ふくやまむら

[現在地名]五所川原市福山

大釈迦だいしやか丘陵西端に位置し、西は浅井あさい村、南は豊成とよなり村、北は野里のざと村に接する。

寛永元年(一六二四)の開村といわれ(長橋村誌)、元文元年(一七三六)検地帳は福山村田方三七町九畝二二歩・畑方一〇町八反五畝七歩、田畑屋敷合せて四七町九反四畝二九歩、村高二四七・八四一石とある。同年俵元新田八ヵ村の一つに数えられ、享保一二年(一七二七)の村位は下で、石盛は四ツ成であった(平山日記)

福山村
ふくやまむら

[現在地名]大宮町小場おば

那珂川たま川の間にあり、南は向山むこうやま村、西は小場村。「新編常陸国誌」によると、当村は初め小場村の字で忠中戸ただちゆうどとよばれていたが、慶長七年(一六〇二)に支郷として分村、寛永検地で一村となり、寛政一二年(一八〇〇)に福山村と改称した。寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳には「忠中戸村」とみえ、天保郷帳に「福山村」とある。「水府志料」によると戸数およそ九。

福山村
ふくやまむら

[現在地名]玉名市かわ

観音かんのん(四七三メートル)の東麓に位置し、北は石尾いしのお村、東は河床かわとこ村、南は北石貫きたいしぬき村・石貫村に接する。寛文九年(一六六九)の「一統志」に「福山 白山権現 天神」とある。南関手永に属する。「国誌」の高一〇三石余。小村に立山・三山があった(肥集録)

福山村
ふくやまむら

[現在地名]長岡市福山町・希望が丘きぼうがおか二丁目・七日なのか

喜多きた村の南。才津さいづ村の枝郷。元禄郷帳に高二〇八石四斗余の村としてみえ、村高は幕末まで大きな変化はない。地内に伝教大師の開基というおきの三ヵ寺中吉祥きつしよう寺があった。吉祥寺草創のとき境内に吉祥権現も勧請したという。文禄年間(一五九二―九六)に兵火にかかり烏有に帰した。吉祥権現の傍らには十王堂が設けてあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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