秋元泰朝(読み)あきもとやすとも

日本大百科全書(ニッポニカ) 「秋元泰朝」の意味・わかりやすい解説

秋元泰朝
あきもとやすとも
(1580―1642)

江戸初期の大名秋元長朝(ながとも)の子。幼名牛坊、のち孫七郎(まごしちろう)、茂兵衛(もへえ)。1580年(天正8)武蔵国深谷に生まれ、1592年(文禄元)父とともに徳川家康に拝謁し、1600年(慶長5)関ヶ原戦い従軍。1602年武蔵国足立郡に知行地500石を賜り、翌1603年但馬守(たじまのかみ)に叙任。駿府(すんぷ)において大河内正綱(おおこうちまさつな)、板倉重昌(しげまさ)らとともに徳川家康と大名間の取次ぎをする近習出頭人(きんじゅうしゅっとうにん)となる。1614年大坂城の惣堀(そうぼり)埋め立ての功により、武蔵国足立郡・榛沢郡(はんざわぐん)・児玉郡、上野国(こうずけのくに)群馬郡の内にて5000石を知行。1615年大坂の陣には本多政信などと家康の旗下で護衛し、落城ののち残党を探る。1622年(元和8)父の隠居により上野国総社(そうじゃ)の家督1万石を継ぎ、併せて1万5000石を領す。1633年(寛永10)甲斐国都留郡(つるぐん)1万8000石を拝領し、総社より甲斐国谷村(やむら)に転封(てんぽう)。1616年徳川家康の霊柩本多正純(ほんだまさずみ)らと久能山(くのうざん)に供奉(ぐぶ)し、翌1617年日光への改葬に供奉。1624年日光山御廟造営奉行松平正綱と務め、1636年造営完了。1641年御廟造営奉行の功により刀、白銀を賜る。東照宮の神像一体を拝賜し、谷村に一宇を建て安置し、泰安寺(たいあんじ)と号す。墓所は1705年(宝永2)泰安寺より総社の光巌寺(こうがんじ)へ改葬。

[川鍋定男]

『都留市編・刊『都留市史 資料編4』(1992)』

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改訂新版 世界大百科事典 「秋元泰朝」の意味・わかりやすい解説

秋元泰朝 (あきもとやすとも)
生没年:1580-1642(天正8-寛永19)

江戸初期の譜代大名。秋元長朝の子。父とともに徳川家康に仕え,関ヶ原の戦,大坂の陣に参陣。1602年(慶長7)武蔵国安達郡において采地500石を賜り,その後たびたび加増され,33年(寛永10)甲斐国郡内の城代となり,同国都留郡に1万8000石を領し,谷村(やむら)城に住んだ。また,日光造営奉行として数度の造営に携わり,功績をあげた。
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朝日日本歴史人物事典 「秋元泰朝」の解説

秋元泰朝

没年:寛永19(1642)
生年:天正8(1580)
江戸前期の大名。通称は牛坊,孫三郎,茂兵衛,官職名は但馬守,父は長朝。徳川家康に出仕,関ケ原の戦に従軍,のち駿府において近習の出頭人となる。大坂の陣では惣堀を埋めるのに手腕を発揮。元和1(1615)年池田忠継の死後備前岡山へ監使,同年大坂残党を探索。家康の死後遺骸に供奉し,のち久能山から日光への家康霊柩遷座にも供奉した。6年田中忠政の死後筑後(福岡県)柳川へ監使。8年父の遺領を合わせ1万5000石を領知し大名となる。寛永10(1633)年甲斐(山梨県)谷村において1万8000石を領知した。寛永年間に3度日光東照宮造営の総奉行を務めた。

(しらが康義)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「秋元泰朝」の解説

秋元泰朝 あきもと-やすとも

1580-1642 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)8年生まれ。秋元長朝(ながとも)の長男。徳川家康につかえ,関ケ原の戦いに従軍。元和(げんな)8年父の跡をつぎ,上野(こうずけ)(群馬県)総社(そうじゃ)藩主秋元家2代となる。寛永10年1万8000石に加増,転封(てんぽう)されて,甲斐(かい)(山梨県)谷村(やむら)藩主秋元家初代となる。日光東照宮造営奉行をつとめた。寛永19年10月23日死去。63歳。

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