古代・中世の陸奥国におかれた軍政府たる鎮守府の長官。もともとは鎮守将軍といった。大化改新後の律令国家では,陸奥国の蝦夷を鎮圧するために派遣する将軍を,そのときどきに陸奥鎮東将軍,持節征夷将軍,征夷持節大使などといっていた。それが鎮守将軍の名に統一されるのは,729年(天平1)からで,そのときの鎮守将軍は大野東人。鎮守府(はじめは陸奥鎮所といった)の制度もこのころ整えられたのであろう。鎮守府は奈良時代には多賀城(宮城県多賀城市)の陸奥国府に併置されていたが,802年(延暦21)征夷大将軍坂上田村麻呂が造胆沢城使となって胆沢城(岩手県水沢市)を築き,そこに移した。それとともに組織も整えられ,812年(弘仁3)には将軍1をはじめとする定員が定められた。
奈良時代の鎮守将軍は陸奥・出羽按察使(あぜち)と陸奥守を兼ねるものが多かったが,9世紀になると陸奥・出羽按察使は中央の上級貴族のものとなり,さらに10世紀には陸奥守との兼任もなくなる。こうして鎮守府は陸奥国府とは切り離された独立した行政府となり,鎮守将軍はもっぱら岩手県以北の軍政を行うとともに,それにともなう民政をも担当するようになった。このような10世紀の鎮守将軍には,藤原利仁,同秀郷,同千晴,平国香,同貞盛,同維茂(余五将軍)などといった有名な武人が多い。彼らは発生期の武士であって,利仁流藤原氏,秀郷流藤原氏,坂東平氏などといった有名な武士の門流の祖となる人々である。高名な武人が将軍に選ばれて蝦夷との戦いにあたらせられ,また蝦夷との交戦の経験の積上げが中世武士独特の戦闘様式や気風を育て上げ,職業的戦士身分たる武士の家をつくり上げていったのであろう。
11世紀後半の前九年の役,後三年の役をさかいとして,ふたたび鎮守府将軍と陸奥守は兼任を例とするようになる。そのはじめは前九年の役のさいの陸奥守源頼義である。その後は出羽国の俘囚長清原武則や清原真衡が鎮守将軍になり,兼任の例はいったん中絶するが,1099年(康和1)の藤原実宗以後1176年(安元2)の藤原範季にいたるまで,12世紀中の鎮守将軍は,判明するかぎりすべて陸奥守の兼任である。これは鎮守府行政の実権が将軍より下の清原氏や,平泉の奥州藤原氏の手に移り,鎮守将軍の存在が有名無実化し,陸奥守の職能の中に吸収されてしまった結果である。そしてこの藤原範季を最後に鎮守将軍は廃絶する。それがふたたび復活するのは,14世紀の建武政府においてである。1333年(元弘3)まず足利尊氏が鎮守将軍となり,尊氏の反乱後の35年(建武2)11月には陸奥守北畠顕家がこれを兼任し,鎮守大将軍と称している。これが史上に見える鎮守将軍の最後である。なお鎮守大将軍というのは,北畠親房の《職原鈔》によれば,将軍が三位以上の場合の呼称である。
執筆者:大石 直正
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古代蝦夷(えぞ)経営の軍政府たる鎮守府の軍政長官。多く陸奥守(むつのかみ)が兼ねた。奈良・平安初期までの律令(りつりょう)時代には「鎮守将軍」と称し、「鎮守府将軍」とはいわなかった。府をつけてよぶのは平安中期以降で、平安後期になり名目化しても、もっとも権威ある武門の栄職とされた。源頼朝(よりとも)が征夷(せいい)大将軍に任命(1192)されてのち、この称は廃したが、鎌倉幕府の征夷大将軍は鎮守府将軍にかわるものと考えられたのである。
[高橋富雄]
奈良時代以降,陸奥国に常置された将軍。蝦夷(えみし)との軍事的緊張に対処するものとして724年(神亀元)頃までに成立。はじめは鎮守将軍とよばれた。当初は陸奥出羽按察使(あぜち)または陸奥守の兼任だったが,平安前期に分離し,中期以降は名高い武士が任じられる名誉の職になった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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