磯部村(読み)いそべむら

日本歴史地名大系 「磯部村」の解説

磯部村
いそべむら

[現在地名]相模原市磯部・新磯野あらいその・新磯野二丁目・同五丁目・相模台さがみだい一丁目・同五―七丁目・桜台さくらだい相模台団地さがみだいだんち双葉ふたば二丁目・御園みその三―五丁目

相模川の東、中央を横山よこやま段丘が南北に連なり、北は下溝しもみぞ村、南は新戸しんど村と接する。横山の東で府中ふちゆう道と大山道が分れ、府中道は横山の西を流れるはと川沿いの八王子道に合し、大山道は能徳のうとく寺の南を通り、磯部渡でさるしま(現厚木市)へ通じる。

文明八年(一四七六)上杉氏に反旗をひるがえした長尾景春が「相州磯辺の城」に拠ったことが「鎌倉大草紙」にみえる。天文一九年(一五五〇)四月一日の税制改革により「東郡磯部郷」二〇貫文の地の役銭は磯部郷が「不入之地」であるため、本来の三分の二である八〇〇文とされた(「北条家朱印状写」県史三)。永禄一二年(一五六九)一一月二三日の北条家朱印状(同書)によれば、甲斐の武田信玄の侵攻に備え、小田原城普請のため人足三人が一〇日間徴発され、一日遅参すれば罰として五日召使うことが申渡された。


磯部村
いそべむら

[現在地名]総和町磯部

駒羽根こまはね村の西に所在。南・西を釈迦しやか(現在は水田)とそのイリ沼に囲まれ、北に狭い台地が続くが全体的に低地。字香取東かとりひがしに縄文・古墳時代の香取東遺跡があり、浅間南せんげんみなみ遺跡・磯辺遺跡は弥生・古墳時代。ほかに天王南てんのうみなみ古墳があり、勝願寺しようがんじ遺跡、字薬師前やくしまえ道丁どうちよう遺跡などは古墳時代。勝願寺西方に築堤と堀跡があり、館が存在したと思われる。一五世紀には下総関宿城主簗田氏の支配を受け、天正期(一五七三―九二)に至った(→勝願寺。天正二年に関宿を追われた簗田持助は佐竹氏に臣従し、子の貞助は水海みずうみを経て当地に館を構えたとみられ、貞助はそのまま土着し、元和元年(一六一五)の大坂の陣で戦死と伝えられる(簗田氏系譜)


磯部村
いそべむら

[現在地名]金沢市磯部町

松寺まつてら村の南、浅野川右岸に位置。磯辺村とも記した(正保郷帳など)。中世は倉月くらつき庄の内。文明一七年(一四八五)九月二一日の室町幕府奉行人連署奉書(美吉文書)によれば、摂津政親知行分「倉月庄内磯部庶子分」等に対する守護富樫政親の押領を止めるため、波佐谷松岡はさだにしようこう寺が摂津政親代官に合力し、所務を全うするよう命じられている。長享三年(一四八九)左京大夫局(蓮如の四女、幕府申次)雑掌は延暦寺北谷学頭代が「倉月庄内礒部廿町方」に対して違乱していると室町幕府に訴えた。幕府は同年八月五日、同所に対する押妨を停止するよう学頭代に命じている(「室町幕府奉行人奉書」美吉文書)


磯部村
いそべむら

[現在地名]相馬市磯部

柏崎かしわざき村の南東に位置し、北は松川まつかわ浦から続く山信田やましだ(磯部浦)に臨む。太平洋に面した村の東部の平坦地から北へ長洲ながすの磯が延び、太平洋と松川浦を画し、村の南部と西部は台地をなす。西は日下石につけし村など。礒部とも記す。天保郷帳に「古者 磯部村・上野台新田・小磯辺新田三ケ村」と注記される。なお、昭和一四年(一九三九)山信田浦の干拓工事が開始され、同一九年に完成したことによって浦は消滅、五一・五ヘクタールの開田をみた。日下石村から北東流する日下石川は、当村と柏崎村との境界を画して松川浦に注ぐ。


磯部村
いそべむら

[現在地名]岩瀬町磯部

桜川左岸、岩瀬盆地のほぼ中央に位置し、東は小塙こばなわ村、南は友部ともべ村。弘長元年(一二六一)の関東御教書案(鹿島神宮文書)

<資料は省略されています>

とみえ、同三年の関東下知状(同文書)に「常陸国中郡庄内磯部郷神領預所職者、大中臣氏相伝所領」とあるが、大中臣氏が中郡ちゆうぐん庄地頭の大中臣氏なのか鹿島社家の大中臣氏かは不明。

永享元年(一四二九)関東管領足利持氏は磯部稲村いそべいなむら神社に二五貫文を寄進し(同社棟札)、磯部の大部分磯部稲村神社の社有地となったため、神社と社家の結び付きがいっそう強化された。天正年中(一五七三―九二)に笠間氏と結城氏の争いが起こり、結城氏が勝利したため、当村は一時結城氏の支配下に置かれた。


磯部村
いそべむら

[現在地名]常陸太田市磯部町

渋江しぶえ川の北岸に位置し、北は太田村と三才さんざい村。弘安大田文の佐都西郡に「磯部十六丁三段大」とあり、明応年間(一四九二―一五〇一)の「当乱相違地」(秋田藩採集文書)には「いそ辺 くるまの方 同下野三郎」「礒辺之内とうさい寺方 同違乱」「いそ辺下の村」などとある。

寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「磯部村」とあり、寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)には「礒部村」とあるが、元禄郷帳以後は「磯部村」と記すことが多い。


磯部村
いそべむら

[現在地名]成田市磯部

荒海あらみ村の北に位置し、北は尾羽根おばね川を挟み西大須賀にしおおすか(現下総町)。礒部・磯辺とも書く。文禄三年(一五九四)七月の検地帳(「社会経済史学」二八―三)には香取郡礒辺之郷とあり、高一二八石余。寛永一一年(一六三四)の年貢割付状(磯部区有文書)では介崎領礒部村とあり、新田を加え高一六四石余。初め佐倉藩領で、同一五年から旗本松平領、寛文三年(一六六三)から幕府領、延宝八年(一六八〇)には再び佐倉藩領と変遷し、享保八年(一七二三)山城淀藩領となる。


磯部村
いそべむら

[現在地名]鯖江市磯部町

きた山の南麓に位置し、東は戸口中とのくちなか村、南は落井おちい村。ノ川が当村で河和田かわだ川に合流する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に今北東郡「小磯部村」(高三四五・四八石)と記される。正保郷帳から磯部村と記し、田方二五七石余・畠方八八石。福井藩領。当地はもともと水利が悪く、享和二年(一八〇二)藩に願出て約一反歩の用水池をつくった(「磯部村地上用水溜池並水門普請諸色人足請帳」田中家文書)。しかし文政(一八一八―三〇)頃には河和田川の土砂で川底が高くなり、少々の雨降りでも田地は水浸しとなり、農民は難渋した。


磯部村
いそべむら

[現在地名]富山市磯部町一―四丁目・磯部町など

神通川右岸沿い、富山城下西方に位置し、北は安野屋やすのや村。磯辺村とも記される。長禄六年(寛正三年、一四六二)二月一四日の快什旦那譲状(熊野那智大社文書)に「越中国大田いそ辺の行くわん文殊寺大小坊引旦那一円、宰相殿譲所」とあるが、これは同五年の可能性もある。戦国時代末期の富山城を描いた「富山之記」には「磯部口者一坪図書助其手家者置梁輾軒及二千間」とある。寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。正保郷帳では磯辺村とみえ、高二六三石余、田方一〇町六反余・畑方六町八反余。


磯部村
いそべむら

[現在地名]岡崎市東蔵前ひがしくらまえ

足助あすけ街道に沿う村。北は岩津いわづ村、南は東蔵前村、西は西蔵前村に接する。中世、松平信光の子家勝が、丸根まるね城に住んだという。その後岡崎藩領に属し、宝暦一二年(一七六二)一時幕府領となり、明和七年(一七七〇)より再び岡崎藩領となり明治に至る。享保一〇年(一七二五)の岡崎宿助郷高は二〇八石、寛政元年(一七八九)の助郷人足割は千人割で一五人(岡崎市史)。額田手永に属し、享和二年書上によると人別一〇八人、うち男五三・女五五。


磯部村
いそべむら

[現在地名]南河内町磯部

川両岸の低地に位置し、東は別当河原べつとうがわら村。近世初めは幕府領、慶長一〇年(一六〇五)以後は出羽秋田藩領。寛永五年(一六二八)の万相定覚(国立公文書館蔵)に村名がみえ、足軽分の所領で高五六八石余、納米一四二石余・免率二ツ五分、肝煎手作三〇石・肝煎免米一石・関免米二石余。慶安郷帳では田高一六六石余・畑高四一五石余。寛永七年には肝煎二郎左衛門が藩主への目安一件によって捕縛されている(梅津政景日記)


磯部村
いそべむら

[現在地名]愛知川町石橋いしはし

沓掛くつかけ村の北にあり、土橋つちはし村と近接する。石部村とも記される。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ高二七二石。文久二年(一八六二)上知。旧高旧領取調帳に石部村とみえる。宝暦六年(一七五六)の村の小入用は、夫米六石余、郷中間米七斗余、伝馬銀七斗余、村役人への給米五石余、井水入用・普請入用など合せて総計三七石余(「近郷小入用品上申控」春田文書)


磯部村
いそべむら

[現在地名]筑波町磯部

池田いけだ村の南に所在。村内は磯部坪を中央にして東南の安森やすもり坪、西北の荒谷あらや坪に分れ、安森坪には土師器須恵器の出土する安森遺跡がある。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「百九拾四石七斗三升六合 いそへ」とみえ、佐竹(東)義久領であったが、慶長七年(一六〇二)の佐竹氏国替後は天領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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