穆佐城跡(読み)むかさじようあと

日本歴史地名大系 「穆佐城跡」の解説

穆佐城跡
むかさじようあと

[現在地名]高岡町小山田

小山田おやまだ地区の字ふもと太良山たらやま上新城かみしんじよう、現穆佐小学校西の山にある。日州三高城の一つで穆佐高むかさたか城とも称された(三国名勝図会)。六笠城とも記される。築城の時期は不詳だが、遅くとも南北朝期とみられる。建武二年(一三三五)一二月二四日新田方の伊東祐広らは穆佐院政所に立籠り、同晦日土持一族により攻略された。そのまま土持氏は穆佐城に拠り、翌三年一月一〇日・一一日肝付勢が攻め寄せたが土持氏らはこれを撃退したという(同年二月七日「土持宣栄軍忠状」旧記雑録)。初期の穆佐城は穆佐院政所と同一であったらしい。土持氏所持文書書上(土持文書)にはこの合戦のことを「穆佐之城嶋津之惣庄政所殿と戦」と記している。建武四年四月一四日北朝方の畠山義顕(直顕)が穆佐城に入った(日向記)。観応の擾乱では直顕は足利直義方の足利直冬にくみし、観応三年(一三五二)四月二九日の足利義詮軍勢催促状(旧記雑録)などでは、直顕・伊東八郎ら直冬与党は穆佐院に城郭を構えていたとある。延文二年(一三五七)九月直顕の拠る穆佐の城は菊池武光軍の攻撃を受けた(「牛屎氏覚書」同書)。直顕の子重隆は三俣みまた城に籠っていたが、同三年(一説には延文四年)菊池氏により攻略され、畠山父子は逃亡したとされる(「肝付氏伝」同書、「太平記」巻三三菊池合戦事)

その後九州探題今川了俊が穆佐城に入ったらしく、日向国人層の支持を失った了俊は応永三年(一三九六)六月城を開き京へ帰ったという(日向記)。同一〇年穆佐など川南かわみなみの地は島津元久の手中に入り、初め元久叔父久俊に預けられたが数年後辞任。その後に元久弟久豊が入り穆佐城に居を移した(「島津恕翁譜」旧記雑録など)。久豊の子で伊東祐尭女を母とする忠国は同年五月二日穆佐城で誕生したという(「島津忠国系図」同書)。戦国期伊東氏家臣落合勘解由が伊東義祐に語ったところによれば、穆佐の寺には久豊の号義天と刻んだ石塔があり、また穆佐城内の久豊の子忠国誕生地に植えられた榎木が大木に育っていたという(「島津義久譜」同書)。応永一八年元久が没すると久豊は伊集院氏の推す初犬千代丸を排して島津惣家を継承した。同一九年伊東氏が川北・川南に侵攻、穆佐城も攻撃を受け西にし城は陥落した。敗れた島津方は兵を引いて久豊父子も末吉すえよし(現鹿児島県末吉町)へ去り川北・川南は伊東方に帰した(「島津久豊譜」同書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「穆佐城跡」の解説

むかさじょうあと【穆佐城跡】


宮崎県宮崎市高岡町にある城跡。大淀川上流部の右岸の標高約60mの低丘陵上に所在する山城跡。穆佐城は南北朝時代から約280年の歴史をもち、南九州の中世史を語るうえで重要な位置を占めることから、2002年(平成14)に国の史跡に指定された。この城は穆佐院高城(たかじょう)とも呼ばれ、三股院(みまたのいん)高城(都城市)、新納院(にろのいん)高城(児湯郡木城(きじょう)町)とともに日向(ひゅうが)三高城として知られた。南北朝時代、この地は足利尊氏の直轄地となり、堅固な城砦、穆佐城を築城。尊氏の命で九州に派遣された日向国守護、畠山直顕(ただあき)はこの穆佐城を拠点として大隅国にまで勢力を広げたが、その後、島津氏と伊東氏の新たな勢力争いが繰り広げられ、1403年(応永10)には島津家8代当主久豊(ひさとよ)が入城。その後、1445年(文安2)から約130年間は伊東氏の領地となるが、1577年(天正5)、伊東氏の豊後落ちの後は、再び島津氏の領地となり幕末まで続いた。穆佐城は4つの郭(くるわ)から構成され、各郭は大規模な堀切りによって区画され、堅固な土塁を有している。城内の最高所に位置する郭群は、とくに規模の大きい堀切りと土塁によって守られていることから主郭部と考えられ、柱穴や14~16世紀のものとみられる陶磁器などが検出されている。JR日豊本線宮崎駅から宮崎交通バス「穆佐小前」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

今日のキーワード

スキマバイト

働き手が自分の働きたい時間に合わせて短時間・単発の仕事に就くこと。「スポットワーク」とも呼ばれる。単発の仕事を請け負う働き方「ギグワーク」のうち、雇用契約を結んで働く形態を指す場合が多い。働き手と企...

スキマバイトの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android