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穴太荘(読み)あのうのしょう

百科事典マイペディアの解説

穴太荘【あのうのしょう】

近江国滋賀郡に置かれた近衛家領の荘園。現在の大津穴太地区などの一帯にあたる。飛鳥時代の建立ともいう穴太廃寺,北陸道の穴多駅の所在地として,琵琶湖の南西岸の要地であった。1062年穴太御園(みその)が春日詣の屯食(とんじき)を負担しており(《康平記》),当時から摂関家領であったが,1200年には穴太御荘とあり,荘園に転じている。1253年当時は近衛家が荘園支配の荘務権をもち,摂関家の随身の下毛野(しもつけぬ)氏は預所(あずかりどころ)職を長く相伝した(近衛家文書など)。南北朝期には延暦(えんりゃく)寺の支配する穴太散所が現れ,西塔(さいとう)の路次の保全など穴太人足とよばれた課役を負担していたようである。かれらを前身とするとも伝える石積み集団が著名な穴太衆で,1576年に安土城の築城に着手した織田信長は穴太の石工を呼び寄せたという。豊臣秀吉・徳川家康にも仕えた穴太頭は江戸時代には100石の知行を与えられていた。

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世界大百科事典 第2版の解説

あのうのしょう【穴太荘】

近江国滋賀郡の荘園(現,滋賀県大津市坂本穴太町のあたり)。1062年(康平5)の史料に穴太薗としてみえるのが初見。当初から摂関家領であったらしい。1253年(建長5)の近衛家所領目録によれば,近衛家自身が荘園支配の実際的な諸権限(荘務権)を握っていた。またその預所(あずかりしよ)は摂関家の随身下毛野氏で,同氏は代々近衛家を本所にあおぎながら,永らく荘を相伝知行した。一方,1206年(建永元)の慈円起請文では,桜下(本)門跡荘園の一つとして穴太薗が聖覚僧都から慈円に譲られており,同所が山門関係の所領の一つであったことがわかる。

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