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慈円 じえん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

慈円
じえん

[生]久寿2(1155).4.15. 京都
[没]嘉禄1(1225).9.25. 近江,東坂本
鎌倉時代初期の天台宗の僧。諡号慈鎮。関白藤原忠通の子で,九条兼実の弟。永万1 (1165) 年,覚快法親王の室に入って道快と称し,翌々年出家,得度。治承4 (80) 年頃慈円と改名した。兼実の尽力により順調な昇進をとげ,建久3 (92) 年権僧正,天台座主,護持僧となった。

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デジタル大辞泉の解説

じえん〔ジヱン〕【慈円】

[1155~1225]鎌倉初期の天台宗の僧。関白藤原忠通の子。九条兼実の弟。諡号(しごう)は慈鎮。天台座主(ざす)。「愚管抄」の著者。家集「拾玉集」がある。吉水の僧正。

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百科事典マイペディアの解説

慈円【じえん】

鎌倉初期の天台宗の僧。関白藤原忠通(ただみち)の子。九条兼実(かねざね)の弟。諡(おくりな)は慈鎮(じちん)。1192年以後天台座主(ざす)となること4度,1203年には大僧正(だいそうじょう)に任ぜられた。
→関連項目三鈷寺新古今和歌集東塔藤原良経和歌陀羅尼

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

慈円 じえん

1155-1225 平安後期-鎌倉時代の僧,歌人。
久寿2年4月15日生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。九条兼実(かねざね)の弟。天台宗。覚快(かくかい)法親王の弟子となり,明雲(みょううん),全玄にまなぶ。4度天台座主(ざす)に就任したほか,無動寺検校(けんぎょう),四天王寺別当などをつとめる。大僧正。「愚管抄」をあらわして公武協調を主張。歌が「新古今和歌集」に92首のる。家集に「拾玉集」。嘉禄(かろく)元年9月25日死去。71歳。法名ははじめ道快。通称は吉水僧正,無動寺法印。諡号(しごう)は慈鎮。
【格言など】おほけなく憂き世の民におほふかなわが立つ杣(そま)に墨染の袖(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

慈円

没年:嘉禄1.9.25(1225.10.28)
生年:久寿2.4.15(1155.5.17)
鎌倉時代初期の天台宗の僧。没後13年目に慈鎮と諡された。『愚管抄』の著者,鎌倉時代初期の主要な歌人として知られる。父の藤原忠通は白河,鳥羽院政下に37年間摂政関白の地位を保ち,貴族社会の頂点に立ち続けた人物で,母は藤原仲光の娘。兄たちのなかで基実(近衛),基房(松殿),兼実(九条)は摂政関白に,兼房は太政大臣になった。永万1(1165)年,11歳で延暦寺の 青蓮院に入り,翌々年,鳥羽天皇第7皇子の覚快法親王の下で出家して道快と名乗ったが,養和1(1181)年に慈円と改めた。混乱の続く貴族社会のなかで,慈円は,関東の武家との協調を図る同母兄の兼実の庇護の下で活動し,建久3(1192)年に天台座主,建仁3(1203)年には大僧正に任ぜられ,後鳥羽上皇の護持僧にもなったが,貴族社会の政局の推移につれて天台座主の辞退と復帰を繰り返し,補任は4度におよんだ。 源頼朝の死後,後鳥羽上皇の周りは討幕に傾いていったが,兼実と同じ立場に立っていた慈円は,承久の乱(1221)の直前,兼実の曾孫九条(藤原)頼経が征夷大将軍になる予定で鎌倉に下ったことを,公武協調の現れと考えた。討幕の動きが起これば,九条家の立場が崩れることを恐れた慈円は,焦燥にかられながら,国初以来の歴史をたどり,歴史のなかに流れている道理に基づいて,日本国のあるべき姿を明らかにしようとして,史書・史論書として名高い『愚管抄』を著した。後鳥羽上皇は,慈円の平明な歌風を高く評価し,『新古今和歌集』には,西行の94首に次いで,91首もの歌が収められている。百人一首には「おほけなくうき世のたみにおほふ哉 わかたつ杣にすみそめの袖」が入り,家集『拾玉集』には4300首の歌が収められている。墓は終焉の地,比叡山東坂本にある。<参考文献>多賀宗隼『慈円』,赤松俊秀鎌倉仏教の研究』正続

(大隅和雄)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

じえん【慈円】

1155‐1225(久寿2‐嘉禄1)
平安時代末,鎌倉時代初頭の僧侶,歌人。《愚管抄》の著者。摂関藤原忠通の子。母は藤原仲光の娘加賀局。兄の基実,基房,兼実は摂関,兼房は太政大臣になった。生まれた翌1156年(保元1)に保元の乱が起こったが,乱の原因をつくった忠実は慈円の祖父,敗死した頼長は叔父にあたる。2歳で母を,10歳で父を失った慈円は,65年(永万1)に鳥羽天皇の皇子覚快法親王に従って道快と名のり,67年(仁安2)天台座主明雲を戒師として受戒得度した。

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大辞林 第三版の解説

じえん【慈円】

1155~1225) 鎌倉初期の天台宗の僧。関白藤原忠通の子。九条兼実の弟。諡おくりなは慈鎮。四度、天台座主。歌人としても優れる。著「愚管抄」、家集「拾玉集」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

慈円
じえん
(1155―1225)

鎌倉初期の天台宗の僧、歌人。諡(おくりな)は慈鎮(じちん)。父は摂政(せっしょう)藤原忠通(ただみち)、母は藤原仲光(なかみつ)の女(むすめ)、女房加賀。九条兼実(かねざね)の同母末弟。久寿(きゅうじゅ)2年4月15日の生まれ。1165年(永万1)11歳で延暦寺(えんりゃくじ)に入り、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の覚快(かくかい)法親王の弟子となる。13歳で出家し、道快(どうかい)と称して密教を学んだ。1181年(養和1)慈円と改名。兄の兼実が平氏滅亡後、源頼朝(よりとも)の後援で後鳥羽(ごとば)天皇の摂政となるや、その推挽(すいばん)により1192年(建久3)37歳で天台座主(ざす)となり、天皇の御持僧となった。頼朝とも親交を結んで政界・仏教界に地位を築き、仏教興隆の素志実現の機を得、建久(けんきゅう)~承久(じょうきゅう)(1190~1222)の間30年にわたる祈祷(きとう)の生涯を展開する。保元(ほうげん)の乱(1156)以来の無数の戦死者や罪なくして殺された人々の得脱(とくだつ)の祈りに加え、新時代の泰平を祈るところに慈円の本領があった。1193年、座主を辞し、東山の吉水(よしみず)の地に営んだ祈祷道場大懺法院(だいせんほういん)に住んでいたため吉水僧正(そうじょう)とよばれたが、その後も三度、つごう四度天台座主に補せられている。後鳥羽院とは、このように師檀(しだん)の関係も深く、また歌人としても深く傾倒しあっていた間柄であったが、武家政治に関しては対立。彼は院の方針に危険を感じ、ついに1219年(承久1)院の前を去る。以後入滅まで四天王寺別当の地位にあった。承久の乱(1221)後、新たに大懺法院を整備して、朝廷と幕府とのための祈りとして行法を再開するが、病のため嘉禄(かろく)元年9月15日、比叡山(ひえいざん)の麓(ふもと)の坂本で没した。
 慈円の学統は台密三昧(さんまい)流をくみ、とくに安然(あんねん)の思想を受けること深く、教学の著も多い。政治にも強い関心をもち、『愚管抄(ぐかんしょう)』7巻を著した。その文学の愛好と造詣(ぞうけい)とは数多くの和歌となり、家集『拾玉集(しゅうぎょくしゅう)』だけでも6000首以上を数え、『新古今和歌集』には現存歌人として最高の92首がとられている。後鳥羽院は、その歌を「西行がふり」とし、「すぐれたる歌はいづれの上手にもをとらず、むねとめつらしき様を好まれき」と推賞している。『平家物語』成立の背景には彼の保護があったとも伝えられている。[多賀宗隼]
 おほけなくうき世の民におほふ哉(かな)わかたつ杣(そま)にすみそめの袖(そで)
『間中富士子著『慈鎮和尚及び拾玉集の研究』(1947・第一書房) ▽多賀宗隼著『慈円の研究』(1980・吉川弘文館) ▽久保田淳著『新古今歌人の研究』(1973・東京大学出版会)』

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世界大百科事典内の慈円の言及

【愚管抄】より

…7巻。慈円著。《愚管抄》は内容からみて3部に分けることができる。…

【拾玉集】より

慈円の家集で,鎌倉最末期から1346年(貞和2)にかけて青蓮院(しようれんいん)尊円親王が集成。同親王の命により慶運が編纂したともいう。…

【青蓮院】より

…法皇の皇子覚快法親王がそのあとをついでから門跡寺院となり,以後皇族や摂関家の子弟が法灯をつぎ,朝廷の崇信厚く,天台宗三昧流の本所として栄えた。平安末から鎌倉初期の第3代門主慈円の時代,宗風は大いに振興した。慈円は法然や親鸞を庇護し,親鸞は慈円について得度,その入滅後に廟所と御影堂が当院寺域内の大谷に営まれた。…

【平家物語】より

…現存史料によるかぎり,遅くとも1240年(仁治1)当時,《治承物語》とも称した6巻本が成立していたことは確かである。吉田兼好の《徒然草》226段によれば,九条家の出身で天台座主にも就任した慈円に扶持されていた遁世者信濃前司行長が,東国武士の生態にもくわしい盲人生仏(しようぶつ)の協力をえて《平家物語》を作り,彼に語らせ,以後,生仏の語り口を琵琶法師が伝えたという。信濃前司行長については実在が確認できないが,慈円の兄九条兼実の邸に,その家司として仕えた下野守行長がいたし,青蓮院門跡に入った慈円が,保元の乱以来の戦没者の霊を弔うために大懺法(だいせんぽう)院をおこし,その仏事に奉仕させる,もろもろの芸ある者を召しかかえたことが確かなので,《徒然草》の伝える説には,単なる伝承としてしりぞけられないものがあるだろう。…

【真葛原】より

…東山山麓の傾斜地。《新古今和歌集》巻十一に〈わが恋は松をしぐれの染めかねて真葛原に風騒ぐなり〉の歌を残す慈円は青蓮院門跡であった。文人の愛好した地で,双林寺境内に西行庵があり,ここで没した頓阿の像とともに西行像が安置される。…

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