日本大百科全書(ニッポニカ) 「窯址」の意味・わかりやすい解説
窯址
ようし
土器、埴輪(はにわ)、須恵器(すえき)、陶器、磁器、屋根瓦(がわら)など窯業製品の製造過程で、原料(粘土(ねんど)、陶石)を高温処理(焼成(しょうせい))する施設が窯(かま)であり、その遺跡が窯址である。「かまあと」ともいう。窯の使用は、検出遺物や窯址の確認から中国(殷(いん)時代)のほか、オリエント、ローマなどでは紀元前にさかのぼると考えられている。わが国では、古墳時代後期、須恵器生産の開始に伴って、本格的に導入されたと考えられる。それ以前の土器(縄文土器、弥生(やよい)土器、土師器(はじき))の焼成は、露天での野焼きのごとき状況であったことが、その底・体部に黒斑痕(こくはんこん)がみられることから推定されている。
窯は、薪(たきぎ)を入れる焚口(たきぐち)、それを燃やす燃焼部、製品を配置し焼成する焼成部、煙の出る煙道部から構成されている。窯には、丘陵斜面を利用し、床に傾斜を有する登窯(のぼりがま)と、水平に掘り抜き、床が平らな平窯の二者があり、天井の架構方法によって、地下式、半地下式、地上式と区分される場合もある。
陶芸では、登窯とは、丘陵斜面を利用した地上式の連房(室がいくつも連接する)形のものをさすが、考古学のそれは陶芸の「窖窯(あながま)」を示す。須恵器窯は、1000℃以上の高温焼成を必要とすることからもっぱら登窯を用いているが、大阪府堺(さかい)市陶邑(すえむら)窯址群では、平窯が10基余り確認されている。瓦窯での平窯とは、焼成部にロストルと称する床に平行する溝をつくり、火炎の回りをよくした形態のものを呼称する。初期の瓦窯は、奈良県飛鳥(あすか)寺瓦窯のごとく、登窯の焼成部に階段を伴うような形態や、京都府幡枝(はたえだ)窯のごとく、登窯で瓦と須恵器を同時に焼いた瓦陶(がとう)兼業窯がみられる。さらに、土器窯とされる小型の平窯も全国各地で確認されており、三重県水池(みずいけ)遺跡では多数の土器窯が検出されている。
古墳時代の登窯は幅1~2メートル、長さ10メートル前後で、その形状に若干の差を伴いながら時期を追って変化する。平安時代、須恵器生産の衰退とともに、瓷器(しき)、山茶碗(やまぢゃわん)の生産が活発化し、窯体構造では、燃焼部と焼成部との間に火炎を分ける分炎柱を伴う登窯が多くみられるようになる。愛知県猿投(さなげ)窯址群には、5世紀末の須恵器窯から14世紀の山茶碗窯に至る1300余基の窯址が発見されており、発達過程をしのばせる。中世に入って、備前(びぜん)、常滑(とこなめ)、信楽(しがらき)、瀬戸などの陶器生産の盛行に伴い、窯も幅2.5メートル、長さ10メートルを超えるものがみられるようになる。さらに近世には、茶の湯の流行による陶器需要の拡大、有田(ありた)(伊万里(いまり))における磁器生産の開始などとともに、窯構造も連房式の登窯が広く用いられるようになった。
[中村 浩]
『楢崎彰一著『陶器全集31 猿投窯』(1966・平凡社)』▽『中村浩著『窯業遺跡』(『地方史マニュアル 考古資料の見方 遺跡編』所収・1977・柏書房)』