改訂新版 世界大百科事典 「猿投窯」の意味・わかりやすい解説
猿投窯 (さなげよう)
愛知県の名古屋市東部から日進市,愛知郡東郷町,みよし市を経て,豊田市にいたる20km四方の丘陵地帯には,古墳時代から鎌倉時代にかけての古窯跡が1000基以上知られている。この古窯跡群は猿投山南西麓の低丘陵地帯に群在するところから猿投窯と呼ばれている。奈良・平安時代には日本最大の生産規模にたっしたばかりでなく,日本で初めて高火度焼成の灰釉陶器を生み出したことでよく知られている。猿投窯は5世紀中葉代に東山地区(名古屋市千種区東部)において須恵器生産を開始したが,その技術系譜のうえから大阪府の陶邑(すえむら)窯とは異なる南朝鮮の渡来工人の手になるものと考えられる(陶邑古窯址群)。古墳時代においては生産規模は小さく,名古屋市域の丘陵内に存在して,尾張南部の需要を満たすのみであったが,奈良時代の中ごろから原始灰釉陶器の生産を開始し,急速に発展をみた。平安時代初期には中国陶磁の技法を導入して本格的な灰釉陶器を,やがて緑釉陶器も併せ焼くようになって,日本における窯業生産の中心的な地歩を固めた。その製品は輸入中国陶磁や金属製仏器の模倣を主としており,畿内を中心に北は岩手県から南は福岡県まで全国的に運ばれていて,当時〈尾張瓷器(しき)〉の名で中央に貢納していた(瓷器)。この施釉技法は平安中期には東海地方一円から近江にまで拡散したが,平安後期には岐阜県東濃地方にその中心的な地位を譲った。平安末期には日宋貿易に伴う中国陶磁の大量輸入に対抗できず,灰釉技法を棄てて,山茶碗(やまぢやわん)と呼ばれる無釉の農民向けの雑器生産に転換したが,やがて鎌倉後期には猿投窯の分枝である瀬戸・常滑両窯の隆盛の前に廃絶を余儀なくされた。
→瀬戸焼
執筆者:楢崎 彰一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報