立川村(読み)たちかわむら

日本歴史地名大系 「立川村」の解説

立川村
たちかわむら

[現在地名]鳥取市立川町四―五丁目・卯垣ぼうがき二丁目

法美郡北西端に位置する。鳥取城下立川三丁目南方にあり、南は矢津やづ(天神川)を隔てて矢津村と連なる。村名はかつてふくろ(旧袋川)が当村辺りで立川とよばれたことにちなむという。同川沖積地にあるため、享保年間(一七一六―三六)まで烏芋くわい田などとよばれる深田があった(鳥府志)。文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)では建家が過半で耕地は南東部に描かれており、法美往来と滝山たきやまを経てえのき峠を越え岩井いわい郡に至る道が通る。城下町続きの町端(町裏)が発達した地域で、在方に属する村庄屋所管の地でありながらしだいに町的様相を呈した。拝領高は二四〇石余、本免五ツ二分。藪役銀三分六厘・宇倍野山役米三斗余を課されていた(藩史)。元禄一一年(一六九八)には当村のうちしん町とよばれていた地が在構から町奉行支配地に入った(因府年表)。「因幡志」の家数四〇。弘化二年(一八四五)の立川村付人別取分帳(井上家文書)では男二一八・女一九七、うち不在者は男一二・女一四(御小人五・足軽六・江戸奉公三・他家出奉公一二)。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二四三石余、竈数三七八(うち家中一六一・町家一一七)。文久三年(一八六三)の勘定目録(井上家文書)では生高二四三石余、物成六一石余。同年の組合帳(同文書)では立竈一一五・出奉公無竈五。

近世中期には田畑の屋敷化と建屋が増加し、享保八年町裏けんか谷の地が田屋敷となり、同一六年往還土橋、山際の天神辺りでの屋敷建設願が許可された。


立川村
たつがわむら

[現在地名]伊万里市大川町おおかわちよう立川

大川野おおかわの盆地の一部、東西に走る猿尾さるお断層のため、南北の山地の中央部が低地となり、立川川が西流して松浦川に合流。この中央低地を東に行けば標高九〇メートルの平山ひらやま峠を越えて現東松浦郡相知おうち町の平山に出る。正保絵図に村名がみえる。竜川村と書くものもあり、「たち」でなく「たつ」と呼称していたことがわかる。


立川村
たつかわむら

[現在地名]山陽町立川

すな川の右岸にあり、対岸南方みなみがた村。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)高月たかつき庄に村名がみえる。「吉備温故秘録」は鳥取ととり庄の村とし、かつては高月村に含まれたという。

寛永備前国絵図では高一千六一石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高一千一九一石余。延宝五年(一六七七)に古川下新田一一九石余が開発され、貞享元年の二口高一千三一二石余、荒などを引いた残高一千一三九石余。「備前記」は枝村福池ふくち(「備陽記」は福地)を載せる。元禄一七年(一七〇四)砂川に合流する十七じゆうしち川の整備がなされた(山陽町史)。享保六年(一七二一)には田畠六七町一反余、家数五〇・人数二五九、池一(備陽記)


立川村
たちかわむら

[現在地名]会津坂下町立川

東を北流する阿賀川日橋につばし川を合流し、流れを西に変えて村北を西流する。西は砂越すなこえ村、南は下京出しもきようで分。慶長一六年(一六一一)以前の越後街道は当村で阿賀川を渡った。村名はいつの頃か空也が当地の渡場を渡渉中、足元に魚が卵を生んだので孵化するまで七日間川の中に立通したため、立川の名が付けられたといい、その地を待淵(松淵)と称するという(新編会津風土記)。「会津旧事雑考」所収天喜三年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「一番立河村矢鏑流馬一番」とある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高五四二石余で、うち三〇〇石は「大工衆十人」、残りは「かちの衆」に与えられている。


立川村
たちかわむら

[現在地名]芦北町立川

大尼田おおにた村からさらに狭まる山間を迂回した小盆地にある。かさ(五六七メートル)を越えると田浦手永の横居木よこいぎ(現田浦町)に続く。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。佐敷手永に属し、「国誌」に観音堂が記される。文化一〇年(一八一三)の佐敷手永村々高附帳(熊大図書館蔵)に高八四石八斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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