立川談志(読み)タテカワダンシ

デジタル大辞泉 「立川談志」の意味・読み・例文・類語

たてかわ‐だんし〔たてかは‐〕【立川談志】

[1936~2011]落語家。5世。東京の生まれ。本名、松岡克由かつよし。5世柳家小さんに入門。昭和38年(1963)、真打に昇進して立川談志を襲名した。昭和46年(1971)、参議院議員選挙に当選。昭和58年(1983)には落語協会を脱退し、落語立川流を創設した。著作に「現代落語論」などがある。

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知恵蔵 「立川談志」の解説

立川談志

落語家の名跡
五代目を名乗った(正確には七代目と言われる)落語立川流家元、立川談志(本名・松岡克由=まつおか・かつよし)は1936年1月2日、東京生まれ。52年に16歳で高校を中退して五代目柳家小さんに入門、二つ目で「小ゑん」を名乗り頭角を現した。63年に真打ちに昇進して五代目立川談志を襲名。
日本テレビ系の「笑点」を企画・立案し、66年の番組開始から初代司会者を務めて人気者となる。同年代の先代三遊亭円楽や古今亭志ん朝、先代春風亭柳朝とともに「寄席四天王」と呼ばれた。また、独自の社会批評や奔放な毒舌でもファンを増やした。
71年には参議院議員選挙全国区に無所属で出馬し最下位で当選。1期6年間務めた。この間、自民党に入党し、沖縄開発庁政務次官に就任したが、二日酔いで記者会見に出席したことなどがもとで、わずか1カ月で次官を辞任した。
83年、真打ち昇進制度を巡る対立により、師匠の小さんが会長を務める落語協会を脱退、「落語立川流」を創設し家元となった。以降、常設の寄席に出演できなくなったものの、ホールでの落語会を続け、志の輔、談春、志らくらなどの人気落語家を育てた。「芝浜」「文七元結」など古典落語の名手だった。理論家でもあり、著書に「現代落語論」などがある。
97年に食道がんが見つかり、2008年に声門がんの手術、09年には糖尿病治療と体力低下のため休養するなど、闘病を続けていた。晩年は、喉頭がんを患ったが、「プライドが許さない」として声帯の摘出手術はせず、落語への意欲を見せていた。その後、がんの進行で呼吸困難症状となり、11年3月下旬に気管切開手術を受け、声を失った。同月6日、一門会で披露した「蜘蛛駕籠(くもかご)」が最後の高座となった。同年10月下旬に容態が急変し、以後3週間、意識が戻らないまま、11月21日、75歳で死去した。戒名は本人が以前から決めていた「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」。

(葛西奈津子  フリーランスライター / 2011年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「立川談志」の意味・わかりやすい解説

立川談志
たてかわだんし

[生]1936.1.2. 東京
[没]2011.11.21. 東京
落語家,落語立川流家元。本名松岡克由。1952年柳家小さん(5世)に入門,前座名は柳家小よし。1954年二つ目に昇進し,柳家小ゑんと改名。古典落語の口演で注目され,湯浅喜久治が主催する「若手落語会」に抜擢される一方,日本劇場のステージにも出演,キャバレーなどの余興でも活躍した。1963年真打ちに昇進し,5世立川談志を襲名。1966年テレビ番組『笑点』(日本テレビ系)を発案・企画し,初代司会者を務める。そのほか,『やじうま寄席』(日本テレビ系)などテレビ,ラジオでも幅広く活躍。1969年衆議院議員総選挙に立候補したが落選。1971年参議院議員通常選挙に無所属で出馬し全国区で初当選。当選後,自由民主党に入党して 1期 6年務めた。その間,1975年には沖縄開発庁政務次官となるが,すぐに辞任した。1983年真打ち昇進試験制度をめぐり師匠の柳家小さんと対立,一門とともに落語協会を脱会し,落語立川流を創設し家元となる。「伝統を現代に」と訴え,「落語とは人間の業の肯定」「イリュージョンこそが人間の業の肯定の最たるもので,そこを描くことが落語」といった独自の理論を打ち立てた。得意ネタは,『芝浜』『黄金餅』『らくだ』『源平盛衰記』など数多い。『現代落語論』(1965)など多くの書を著し,落語家や研究者にも多くの影響を与えた。(→落語

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「立川談志」の解説

立川 談志(4代目)
タテカワ ダンシ


職業
落語家

本名
中森 定吉

別名
前名=桂 才太郎,桂 才二郎,桂 文鏡

生年月日
?

出生地
江戸・芝(東京都)

経歴
初め2代目桂才賀の門人で才太郎と名乗り、ついで才二郎と改名。のち6代目桂文治門下となり文鏡を経て、明治10年4代目立川談志を襲名する。扇子一本で真打をつとめる実力派だが、ステテコの初代円遊、ヘラヘラの初代万橘、ラッパの4代目円太郎らと並び、釜掘りの談志と云われて、珍芸四天王の一人として大人気を得た。釜掘りとは「唐土二十四孝」の中から郭巨の故事をネタに、赤ん坊にみたてた座布団を抱いてテケレッツのバァと文句を早口で繰り返す他愛のないものだった。珍芸では円遊のライバルとして13年頃から20年代になる頃までこの珍芸ブームが続いた。四天王の中では一番早く没した。

没年月日
明治22年 5月10日 (1889年)


立川 談志(6代目)
タテカワ ダンシ


職業
落語家

本名
竹内 栄次郎

生年月日
明治21年 12月18日

経歴
明治43年5代目三升家小勝門下を経て、大正2年3代目三遊亭円馬門下に。のち、小勝門下に戻り、夢の屋市兵衛を名乗る。6年6代目談志を襲名。「反対俥」が十八番で、通称“俥屋(くるまや)の談志”で親しまれた。

没年月日
昭和27年 2月7日 (1952年)

伝記
高座奇人伝新・大人の粋 小島 貞二 著立川 談四楼 著(発行元 筑摩書房講談社 ’09’08発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「立川談志」の意味・わかりやすい解説

立川談志 (たてかわだんし)

落語家。江戸末期から現代まで5代を数えるが,初代から3代までの事跡はほとんど知られていない。(1)4代(?-1889(明治22)) 本名中森定吉。素噺も巧みな噺家だが,明治10年代の寄席の珍芸ブームのなかで,〈郭巨(かつきよ)の釜掘り〉という所作事を考案して圧倒的な人気を得た。これは子を生埋めにしたという《二十四孝》中の郭巨の妻を擬した芸で,嬰児(えいじ)に見立てた座布団を小脇に抱え,〈そろそろ始まる郭巨の釜掘り,テケレッツのパァ,アジャラカモクレン,キンチャンカーマル,セキテイ喜ぶ〉などといいながら高座を歩きまわった。人気者ゆえに,俗に初代と呼ばれることも多い。(2)5代(1936-2011・昭和11-平成23) 本名松岡克由。はじめ柳家小さん門下で,小ゑんから5代談志を名乗る。鼻っ柱の強さと硬軟自在の芸が魅力で,1983年には落語協会を脱会,〈落語立川流家元〉を称する。
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百科事典マイペディア 「立川談志」の意味・わかりやすい解説

立川談志【たてかわだんし】

落語家。東京都文京区出身。本名松岡克由。1952年16歳で五代目柳家小さんに入門,63年立川談志(七代目だが本人は五代目を自称)を襲名し真打ちに昇進した。TV,ラジオのバラエティ番組などで軽妙,才気煥発なギャグと毒舌で人気を博したが,落語家としては,江戸・古典落語の正統な後継者を任じ,古典を現代的な感覚で演じることに終生執念を燃やした。83年,真打昇進試験制度をめぐって師匠の小さんと対立,落語協会を脱退して落語立川流を創設して自ら家元称した。1971年より参議院議員を1期努めている。得意演目は「芝浜」「野晒し」「首提灯」「蜘蛛駕籠」など。

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20世紀日本人名事典 「立川談志」の解説

立川 談志(6代目)
タテカワ ダンシ

大正・昭和期の落語家



生年
明治21(1888)年12月18日

没年
昭和27(1952)年2月7日

本名
竹内 栄次郎

経歴
明治43年5代目三升家小勝門下を経て、大正2年3代目三遊亭円馬門下に。のち、小勝門下に戻り、夢の屋市兵衛を名乗る。6年6代目談志を襲名。「反対俥」が十八番で、通称“俥屋(くるまや)の談志”で親しまれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「立川談志」の解説

立川談志(5代) たてかわ-だんし

1936-2011 昭和後期-平成時代の落語家。
昭和11年1月2日生まれ。昭和27年5代柳家小さんに入門。小よしから小ゑんをへて38年真打となり5代を襲名。現代感覚をいかした強烈な個性で古典落語をかたる。46年参議院議員。58年落語協会から独立,立川流家元を称した。平成23年11月21日死去。75歳。東京出身。本名は松岡克由。著作に「現代落語論」。

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367日誕生日大事典 「立川談志」の解説

立川 談志 (たてかわ だんし)

生年月日:1936年1月2日
昭和時代;平成時代の落語家

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の立川談志の言及

【落語】より

…円朝と並ぶ人情噺の名手初代柳亭(談洲楼(だんしゆうろう))燕枝(えんし),やはり人情噺をよくした3代麗々亭柳橋(れいれいていりゆうきよう)(のち春錦亭柳桜(しゆんきんていりゆうおう))(1835‐97),芝居噺の名手6代桂文治,花柳物の名手4代桂文楽,落し咄,人情噺ともによくした2代古今亭志ん生,滑稽噺の2代柳家(禽語楼(きんごろう))小さんなどがそれだった。異彩を放ったのは,〈ステテコ踊り〉の,俗に初代ともいう3代三遊亭円遊,鉄道馬車のラッパを吹く音曲師4代橘家(たちばなや)円太郎(?‐1898),〈郭巨(かつきよ)の釜掘り踊り〉の4代立川談志(?‐1889),〈ヘラヘラ踊り〉の三遊亭万橘(まんきつ)(?‐1894)という〈寄席四天王〉で,彼らは珍芸を売物にして人気を博した。珍芸流行の原因は,当時,東京市内が明治に入って最大の不況に見舞われ,特別に珍奇な芸でなければ客が呼べないという事情もあったが,時流からみれば,明治になって東京に集まって来た,寄席になじみのない新しい客層を開拓する手段であり,それは,江戸時代以来の続き物の人情噺が歓迎されなくなってきたことの証明でもあった。…

※「立川談志」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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