竜蔵寺(読み)りゆうぞうじ

日本歴史地名大系 「竜蔵寺」の解説

竜蔵寺
りゆうぞうじ

[現在地名]萩市大字椿東 中津江

山門は阿武あぶ川に南面する。臨済宗南禅寺派、白牛山と号し、本尊大日如来

寺伝によれば天平年間(七二九―七四九)の創建、開基は行基といわれ、聖武天皇勅額を賜ったという。元禄の東大寺大仏殿再建の勧進僧公慶が当寺の渓翁に起草して与えたと伝える(公慶上人年譜聚英)。長門州阿武郡牛(牧)庄川嶋白牛山竜蔵寺縁起によれば、天平年間、東大寺創建の時、創建用材を運んで死んだ白牛のため国守がその埋葬の地に一堂を建立したのに始まるという。


竜蔵寺
りゆうぞうじ

[現在地名]山口市大字吉敷 滝河内

吉敷よしきの南西、秋葉あきば山の北麓にあり、真言宗御室派、山号は滝塔山。本尊は近年まで阿弥陀如来であったが、妙法みようほう寺旧蔵の大日如来坐像に替えている。境内東方の山中に岩窟があり、これを奥院と称する。岩には大きな仏像の線彫がある。

寺伝によると文武天皇の二年役小角が来てこの窟中で護摩供を修し、熊野権現を勧請したという。その後、天平一三年(七四一)に行基が来て千手観音を造り、寺を創建したともいう。しかしその後の寺歴については不明である。


竜蔵寺
りゆうぞうじ

[現在地名]篠山市真南条上

口坪くちつぼにある天台宗寺院。太平山と号し、本尊は千手観音。大化年間(六四五―六五〇)法道が開創したと伝え、塔頭七二を数え、丹波修験の道場として寺勢を誇ったという。寿永二年(一一八三)兵火で全山が焼失したが、比叡山延暦寺恵心えしん院の一乗が再興して僧坊三六宇を擁したと伝える。寺蔵の三世三千仏図(麻本着彩三幅)は室町初期の作とされ、修験道場の三岳山にあったが、文明一四年(一四八二)の兵乱で同山の頼慶により山麓に移されたという。天文一九年(一五五〇)からの三好・松永の軍勢による八上やかみ城波多野氏への攻略により一帯は戦場となり、弘治二年(一五五六)にも罹災したという。天正年間(一五七三―九二)の延暦寺再興に伴い丹波国四箇本寺の一つとなり、豊臣秀吉の朱印状をもって一〇万石の寺格に準じられ、元和五年(一六一九)には境内山林竹木茶園などを安堵されている(丹波志)


竜蔵寺
りゆうぞうじ

[現在地名]芦辺町諸吉 仲触

高御祖たかみおや神社の北にある。大淵山と号し、曹洞宗。本尊は地蔵菩薩。承安元年(一一七一)没の道朴が開いた寺院が前身と伝え、文明三年(一四七一)宇都宮氏一族の州翁禅益が境内地を寄進して新たに興したという。境内に享禄元年(一五二八)銘の逆修六地蔵塔がある。州翁を開山ともいうが、のちの異雪慶殊ともされる。異雪は壱岐の出身で、天文二〇年(一五五一)大内義隆が長門国大津おおつ大寧たいねい(現山口県長門市)で自刃するに際して最後に法談した僧として知られるが、のち帰島して竜蔵寺を開いたという。永禄一〇年(一五六七)の社寺諸士給地配当帳(松浦家文書)によれば、寺領は一町二反。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の竜蔵寺の言及

【隆興寺】より

…俗に大仏寺ともいう。隋代,586年(開皇6)の創建で,当初は竜蔵寺といったが,宋代に再建されて竜興寺と改称し,清代以降今日の名称となった。山門,大覚六師殿址,摩尼殿,戒壇,転輪蔵殿,慈氏閣,仏香閣,弥陀殿などが立ち並び,宋代の左右対称の伽藍配置を基本的にはとどめた華北地方の代表的な仏教建築遺構。…

※「竜蔵寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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