日本大百科全書(ニッポニカ) 「童門冬二」の意味・わかりやすい解説
童門冬二
どうもんふゆじ
(1927― )
小説家。東京生まれ。本名太田久行(おおたひさゆき)。1944年(昭和19)志願して茨城県の海軍土浦航空隊に入隊。翌年第二次世界大戦の終結を迎え、復員後、1947年(昭和22)東京・目黒区役所に就職。のちに東京都庁へ移り、東京都立大学事務長、都広報室課長、企画関係部長、知事秘書、広報室長、企画調整室長、政策室長などを歴任。1979年、都知事美濃部亮吉(みのべりょうきち)の引退とともに都庁を去り、作家活動に入る。
童門が終始一貫して追求しているテーマは「歴史にみる組織と人間」というものである。それは40年以上におよぶ公務員生活と、行政の現場でさまざまなケースに立ち会ってきた体験から得たものであった。ことに40歳からの12年間は、革新派の都知事美濃部のもとで幹部として都政運営に関わっている。保守派の牙城だった都庁に革新派の知事が生まれたことで、組織の内部での軋轢(あつれき)や葛藤は凄まじいものがあり、そうした経験が作品に結晶している。
もっとも、彼の創作活動、作家としての経歴はずいぶん早い時期から始まっている。1951年創設の『講談倶楽部(クラブ)』賞の受賞者や次席、佳作となった作者たちをメンバーに結成された小説の勉強会「泉の会」に参加し、1956年に発刊された会の同人誌『小説会議』を筆頭に『時代』『さ・え・ら』といった同人誌などにも精力的に作品を発表していた。この時代の成果としては1960年「暗い川が手を叩く」が芥川賞最終候補としてあげられた。この年はまれに見る激戦で、受賞作は北杜夫(もりお)の「夜と霧の隅で」であったが、候補作はほかに倉橋由美子「パルタイ」、川上宗薫(そうくん)「憂鬱な獣」、なだいなだ(1929―2013)「神話」など錚々(そうそう)たる顔ぶれが並んでいた。
一方で、1962年ごろからテレビの人気番組『新選組始末記』(原作子母沢寛(しもざわかん))のシナリオも執筆。『異説新撰組』(1964)、『新撰組一番隊』(1967)、『新撰組山南(やまなみ)敬助』(1975)などの長編も刊行。自分の夢と組織の間で「精一杯生きた男たちの生命の完全燃焼がひしひしと伝わってくる」感動を伝えるべく研鑽を重ねていく。これは、終生のテーマとなる「歴史の中の組織と人間」に繋がる第一歩であった。童門は都庁という行政現場に身を置くことで、職員同士の対立や住民との間の意見調整など、さまざまな問題点を目の当たりにするが、それらの問題を解決するためには歴史のなかの類似した場面を参考にしようと思いつく。過去の出来事を参考にしつつ、現在の問題に対処しようというのである。過去にこそ学ぶべき事例が多くあるとするこの意識は、都庁を退職してからより一層顕著になり、文筆専業となってからは小説以外にも組織論、経営戦略、人間の生き方論などを次々と著して、経営者やサラリーマンの間で絶大な人気を博す。
しかし童門の名を一般読者の間で決定的にしたのは、江戸時代後期米沢藩の藩主で、倹約を励行し危機に瀕していた藩の財政を建て直した名君を描いた『小説上杉鷹山(ようざん)』(1993)であろう。また戦国期から江戸前期の智将直江兼続(なおえかねつぐ)が目指した理想の国家を描く『北の王国』(1991)、平将門のイメージをくつがえした『平将門 湖水の疾風(かぜ)』(1993)、加賀の御用商人銭屋五兵衛と、彼のブレーンでからくり師としても有名な大野弁吉(1801―1870)の生き方を描く『海の街道』(1994)など、中央に反旗をひるがえし、地方の自治を目指す者たちの物語を発表。それらは広く受け入れられ、童門のもとには日本各地の中小企業、団体、自治体、文化グループなどから講演の依頼がひきもきらず、精力的な活動を続けている。
[関口苑生]
『『新撰組一番隊』(1974・新人物往来社)』▽『『新撰組山南敬助』(1975・新人物往来社)』▽『『異説新撰組』(春陽文庫)』▽『『小説上杉鷹山』『北の王国』『平将門 湖水の疾風』『海の街道』(学陽書房・人物文庫)』