明治初期の近衛兵の反乱事件で,竹橋騒動ともいい,徴兵制下の最初の兵士暴動。1878年8月23日夜,近衛砲兵大隊の兵卒数百名が,給料の減額や西南戦争に対する論功行賞への不満などを理由として反乱を起こしたとされるが,最近では自由民権思想とのかかわりが指摘されている。そのことは,徴兵制による創設期の陸軍がフランス式であり,比較的自由な軍隊であったこととも関連するかもしれない。その意味では,この事件は,フランス式からやがてドイツ式へ移行する日本陸軍変質の過渡期の象徴的事件といえよう。
反乱兵は制止する大隊長宇都宮茂敏陸軍少佐と週番士官深沢巳吉大尉とを殺害して決起した。《明治天皇紀》(第4)はその後の反乱兵士の行動を次のようにいう。〈暴徒等更に大蔵卿大隈重信の飯田町の邸に向つて発砲し,火を秣舎に放ち,其の一群百数十人は赤坂仮皇居に到りて強請する所あらんとし,山砲二門を挽きて兵営を脱出す。然るに近衛歩兵聯隊営前を過ぐるや,聯隊兵の射撃する所となり,砲を棄てて潰乱せしが,巨魁近衛砲兵大隊兵卒大久保忠八等九十余人遂に皇居門前に達す〉と。しかし,内務卿伊藤博文は,いちはやくこの反乱を予知していたから,陸軍卿山県有朋にも知らせており,反乱はただちに鎮圧された。翌24日からは陸軍裁判所での糾問が開始され,10月14日,首謀者三添卯之助(近衛歩兵第2連隊第1大隊第2中隊兵卒)ら53名を死刑に処した(のち,2名追加)。そして,翌79年6月30日までに将校13名,下士46名,兵卒335名,計394名の処分を完了した。この死刑55名の族籍はほとんど平民ないし農民である。これは兵士に対する処分としてはきわめて重く,政治裁判の色彩が濃厚といってよい。
この事件を契機に山県は忠実・勇敢・服従を軍人の主要徳目とした〈軍人訓戒〉を公布し(1878),ついで1882年には,明治天皇が〈軍人勅諭〉を下賜した。そこには天皇が大元帥として直接軍の統率に当たることが述べられ,忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5徳目を掲げて,天皇への絶対服従が説かれている。竹橋事件はこうして天皇制軍隊とそのイデオロギー確立の一画期となった。〈旧近衛鎮台砲兵之墓〉は現在東京・青山墓地(旧青山陸軍埋葬地)にあり,これは明治憲法発布の大赦令後に,関係者や遺族によって建てられたものである。この事件の真相はなお今後の研究にまたねばならない。
執筆者:田中 彰
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日本で初めての兵士反乱。当時は「徒党暴動」「近衛(このえ)砲隊暴動」と呼称された。1878年(明治11)8月23日夜、近衛砲兵大隊の兵営(現在の東京・北の丸公園の一部)から兵卒200余名が蜂起(ほうき)。制止する大隊長宇都宮茂敏(うつのみやしげとし)少佐と深沢巳吉(ふかざわみのきち)大尉を殺害、山砲を発し厩(うまや)に放火、砲兵大隊兵営と向かい合っていた近衛歩兵第二連隊に協同を呼びかけた。同隊から30余名が呼応。兵士90余名は山砲一門を引いて、当時仮皇居になっていた赤坂離宮に迫り、天皇に強訴しようとしたが失敗。翌24日午前2時ごろには全員逮捕され鎮圧された。同日朝から陸軍裁判所で黒川通軌(みちのり)裁判長の下で、反乱兵士にそろばん責め、箱責めの拷問など過酷な糺問(きゅうもん)が開始され、10月13日兵卒259名の犯罪処分断案を決定(死刑53、准流刑118、徒刑3~1年68、戒役15、杖(じょう)および錮(こ)1、錮4)。10月15日越中(えっちゅう)島の陸軍刑場で処刑された53名の死刑者は、近衛歩兵第二連隊兵卒1、近衛砲兵大隊兵卒47、東京鎮台(ちんだい)予備砲兵第一大隊兵卒5名で、そのほとんどが徴兵農民・平民出身の平均年齢24歳の青年であった。翌79年4月10日には鎮台予備砲兵大隊の梁田正直(やなだまさなお)曹長と平山荊(ひらやまいばら)火工下長の死刑が執行された。暴動関係者として収監中の東京鎮台予備砲兵第一大隊長岡本柳之助(りゅうのすけ)少佐は、同年2月奪官の判決を受け出獄、部下の内山定吾(さだご)砲兵少尉には自裁(切腹)の判決があったが実施されず、82年5月無期流刑に変更された。蜂起の理由は、当時から近年まで、西南戦争の賞典がなかったこと、経費削減による減給、官給品減省などの不満とされてきた。真相はいまだ闇(やみ)に包まれている。しかし現在関係者遺族などの掘り起こし研究が進み、地租改正反対一揆(いっき)や自由民権運動の影響がみられる史実が明らかにされつつある。この騒動直後の78年10月、陸軍卿(きょう)山県有朋(やまがたありとも)の名で軍人訓誡(くんかい)、82年1月軍人勅諭が出されるなど、天皇の軍隊への確立が推進された。
[松尾章一]
『竹橋事件百周年記念出版編集委員会編『竹橋事件の兵士たち』(1979・徳間書店)』
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1878年(明治11)8月23日の夜,東京竹橋にある近衛砲兵大隊の兵士が中心となっておこした日本軍はじめての反乱事件。徴兵令で駆り出された農村出身の次・三男の兵士が,西南戦争後の論功行賞などの不公平な処遇をめぐって不満をつのらせ,天皇に直訴しようとして行動をおこしたとみられているが,最近ではその行動の背景に自由民権思想の影響があったという説もある。隊内の制止者を殺害し,営内に火を放ち,山砲をひいて赤坂の仮御所に向かおうとした。近衛歩兵連隊や東京鎮台砲兵大隊からも同調者があったが,合体する前に鎮圧された。55人が死刑,準流刑以下徒刑など302人という一大事件となった。
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…和歌山藩の砲兵大隊長をつとめ,廃藩後,陸奥宗光らの推薦で陸軍省に出仕,西南戦争には大阪鎮台参謀として参戦した。1878年近衛砲兵の暴動(竹橋事件)が起こったとき,東京鎮台予備砲兵第1大隊長の地位にあり,暴動を予知しながら上部へ報告もせず説諭もあいまいであるなど謎めいた行動をとったが,そのとがで奪官の刑に処せられた。後年,陸奥の推挙で朝鮮の宮内府顧問となり,日清戦争後の95年10月,王妃閔妃(びんひ)殺害事件に参画,投獄されたが証拠不十分で免訴。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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