皇室のかつての離宮,東宮御所で,現在は迎賓館。東京都港区元赤坂にある。
同地はもと紀州藩の屋敷の所在地で,1872年(明治5)2月邸宅および敷地約31万2600坪(約103万1580m2)を旧藩主徳川茂承が献納し,翌3月離宮と定め,赤坂離宮と命名され英照皇太后の御所に供された。ところが73年5月皇城が焼失し,ここに天皇・皇后が移り,皇太后は隣接の青山御所に移り,以来89年1月再営した新宮殿に天皇・皇后が移るまで仮皇居として用いられた。89年12月嘉仁親王(のちの大正天皇)の東宮御所が設置され,99年8月から御所の造営に着手し,1909年6月完成した。これが現在に残る離宮の建物である。皇太子はこの造営の間は青山御所内の仮東宮御所に移居したが,新営の東宮御所に入らないうちに明治天皇が没した。その後,14年高輪御所が東宮御所にあてられたため,赤坂離宮の旧称に復したが,23年に皇太子が入居して再び東宮御所となり,大正天皇の没後も,28年9月まで続いた。そして三たび赤坂離宮に復称したが,第2次大戦終結後の48年3月皇室の手を離れ,国会図書館等の庁舎にあてられた。そして67年閣議で迎賓館として使用することが決定し,村野藤吾らにより68年末から改修工事に着手し,74年4月に完成,以来総理府の付属機関として,名称も迎賓館赤坂離宮と定められ,利用されている。
執筆者:川田 貞夫
煉瓦造り石張り2階造りで,1階東西には東宮および同妃の私室が,2階には来賓のための公室が配され,厨房等のある地下1階も含めて総面積約1万5355m2。建造経費約510万円。初の本格的な洋風宮殿建築として慎重に先進国に範がとられ,建築石材や家具調度類は最高級品が輸入された。建設を統括したのは宮内省技師片山東熊で,調査調達のための渡航4回,室内装飾には今泉雄作,浅井忠,黒田清輝等当時一流の美術家が動員された。建築様式は権威を誇示するために当時ヨーロッパで流行していたネオ・バロックが採られ,室内はフランス18世紀末様式が基調とされた。建築構造は地震を考慮してアメリカに発注され,煉瓦壁内部に鉄骨を組んで補強されている。明治国家の絶対主義的な性格が生みえた最大のモニュメントであった。
執筆者:丸山 茂
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明治期を代表する洋風建造物。東京都港区元赤坂。東宮御所として建設された。1898年(明治31)宮内省に東宮御所御造営局が設置され,技監片山東熊(とうくま)を筆頭に,高山幸次郎・足立鳩吉ら宮内省内匠寮の営繕スタッフにより1908年竣工。煉瓦石造を主体に鉄骨構造を導入して耐震化を図ったほか,室内意匠や調度に明治美術工芸界の総力が結集されたことでも特筆される。74年(昭和49)国の迎賓館となった。国宝。
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…これらの資材の国産化は直接建築の西欧化を目標とするものではないが,のちの近代建築成立期の技術的背景を形成した。明治時代の主要な建築として,上野博物館(1881,コンドル),三菱一号館(1894,コンドル),東京裁判所(1896,エンデ,ベックマン,ハルトゥング),日本銀行本店(1896,辰野金吾),横浜正金銀行(1904,妻木頼黄(よりなか)),赤坂離宮(1909,片山東熊)などが挙げられる。明治における西欧風様式建築導入に見られる著しい特色は,西欧の建築体系をその全体でなく,日本が必要としていた側面においてのみ積極的導入がはかられたことである。…
…ブリュッセルの高等裁判所(1866‐83),ウィーンの王立劇場(1874‐88),ベルリンの帝国議事堂(1884‐94)などはその代表作として著名である。日本でも,明治10年代から第二帝政式の影響が顕著に現れ,赤坂離宮(現,迎賓館,1909)でほぼ完全なネオ・バロック様式を実現している。【桐敷 真次郎】。…
※「赤坂離宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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