竹沢弥七(読み)タケザワ ヤシチ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「竹沢弥七」の解説

竹沢 弥七(10代目)
タケザワ ヤシチ


職業
義太夫節三味線方(文楽)

専門
人形浄瑠璃,三味線

肩書
重要無形文化財保持者(人形浄瑠璃文楽・三味線)〔昭和47年〕

本名
井上 一雄(イノウエ カズオ)

別名
初名=竹沢 一雄,前名=竹沢 団二郎(3代目),竹沢 団六(7代目)

生年月日
明治43年 9月12日

出生地
京都

経歴
大正6年9代目竹沢弥七(のち3代目竹沢藤四郎)に入門し、竹沢一雄を名乗って、7年京都竹豊座で初舞台。8年3代目竹沢団二郎を襲名したが、10年同座が閉場したため、12年6代目竹沢団六(のち6代目鶴沢寛治)に預けられて大阪の御霊文楽座に入る。昭和11年新義座の結成に参加するが、13年文楽座に復帰し、7代目竹沢団六を襲名。11年以来8代目竹本綱太夫の相三味線をつとめ、以後コンビが44年まで続いた。その間の22年10代目竹沢弥七を襲名した。34年新橋演舞場で松本幸四郎らと歌舞伎文楽提携による「日向島」の試演を行ない話題となった。47年人間国宝に認定される。作曲作品に、安藤鶴夫作「芸阿呆」、「女殺油地獄」の「豊島屋油店」の復曲などがある。

受賞
芸術選奨(第11回 昭35年度)〔昭和36年〕,日本芸術院賞〔昭和50年〕 紫綬褒章〔昭和46年〕 毎日演劇賞〔昭和26年〕,芸術祭賞(レコード部門 第14回 昭34年度)〔昭和35年〕

没年月日
昭和51年 10月24日(?) (1976年)

伝記
ふり蛙―新国劇70年あれこれ歌右衛門の疎開中村勘三郎楽屋ばなし 島田 正吾 著山川 静夫 著関 容子 著(発行元 朝日新聞社文芸春秋文芸春秋 ’88’87’87発行)


竹沢 弥七(8代目)
タケザワ ヤシチ


職業
人形浄瑠璃三味線方

本名
上田 弥造

別名
前名=為造,弥造,団六,宗六

生年月日
弘化1年

出生地
京都府

経歴
7代目竹沢新七に入門し、人形浄瑠璃三味線方として幕末期から活躍。為造・弥造・団六・宗六と改名したのを経て、明治11年に8代目弥七を襲名したというが、その名での出演歴がないため未確認

没年月日
大正5年 8月1日 (1916年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「竹沢弥七」の解説

竹沢 弥七(10代目)
タケザワ ヤシチ

大正・昭和期の義太夫節三味線方



生年
明治43(1910)年9月12日

没年
昭和51(1976)年10月24日(?)

出生地
京都

本名
井上 一雄

別名
初名=竹沢 一雄,前名=竹沢 団二郎(2代目),竹沢 団六(7代目)

主な受賞名〔年〕
毎日演劇賞〔昭和26年〕,芸術祭賞〔昭和34年〕,芸術選奨〔昭和35年〕,日本芸術院賞〔昭和50年〕

経歴
大正6年竹沢弥七に入門し、竹沢一雄を名のって、7年京都竹豊座で初舞台。8年2代目竹沢団二郎を襲名したが、10年同座が閉場したため、12年6代目竹沢団六に預けられて大阪の御霊文楽座に入る。昭和11年新義座の結成に参加するが、13年文楽座に復帰し、7代目団六を襲名。11年以来8代目竹本綱太夫の相三味線をつとめ、以後コンビが44年まで続いた。その間の22年10代目弥七を襲名した。34年新橋演舞場で松本幸四郎らと歌舞伎文楽提携による「日向島」の試演を行ない話題となった。47年重要無形文化財保持者に認定された。


竹沢 弥七(9代目)
タケザワ ヤシチ

明治〜昭和期の人形浄瑠璃三味線方



生年
慶応4年8月14日(1868年)

没年
昭和26(1951)年3月16日

出生地
京都府

本名
平岡 勝次郎

別名
前名=宗之助,弥造,竹沢 団六(タケザワ ダンロク),竹沢 宗六(タケザワ ソウロク),後名=竹沢 藤四郎(3代目)(タケザワ トウシロウ)

経歴
明治9年竹沢宗六(のち8代目竹沢新七)に入門し、人形浄瑠璃三味線方として主に京都の素人稽古などで活躍。宗之助・弥造・5代目団六・5代目宗六と改名したのを経て大正9年9代目弥七を襲名。10年豊竹座の閉場を機に引退するが、昭和22年には3代目竹沢藤四郎の名で復帰し、文楽座に出演した。柔らかい音色を奏でることで定評があった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「竹沢弥七」の意味・わかりやすい解説

竹沢弥七 (たけざわやしち)

義太夫節の三味線演奏者。(1)初世(?-1754(宝暦4)) 初世竹沢藤四郎の門人。竹本錦太夫(《沓掛村》《松波検校琵琶の段》を初演),島太夫,2世政太夫,大和掾らの名人を弾いた。(2)2世 生没年等未詳だが,3世政太夫,組太夫(《野崎村の段》を初演)らを弾いた。(3)3世(1777-1824・安永6-文政7) 2世門人で,源吉,千右衛門,2世竹沢権右衛門から1808年(文化5)に弥七をつぎ,のち初世豊沢広助となって,豊沢姓を興した。(4)7世(1831-76・天保2-明治9) 6世の門人。1869年(明治2),堀江芝居で大三味線を使用し,曲弾き流行の先鞭をつけた。また,74年にも東京浅草で,2尺胴の大三味線で評判をとった。(5)10世(1910-76・明治43-昭和51) 9世門人。本名は井上一雄。一雄,3世団二郎,7世団六を経て弥七を襲名。8世竹本綱太夫との名コンビで知られた。重要無形文化財保持者。賀茂川疏水に入水して生涯をおえた。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹沢弥七」の意味・わかりやすい解説

竹沢弥七
たけざわやしち

義太夫(ぎだゆう)節の三味線。1721年(享保6)の竹本座出演以来、大坂で名声を博した初世(?―1754)に始まる。3世(1777―1824)はのちに豊沢(とよざわ)広助と改名して一派をたてた傑物であり、また7世(1831―76)の大三味線は、明治初年に大きな話題となった。

[倉田喜弘]

10世

(1910―76)本名井上一雄。8世竹本綱大夫(つなたゆう)の相三味線として、多くの名演奏を残した名手。とりわけ近松物の『心中天網島』(しんじゅうてんのあみじま)「河庄」(かわしょう)の段と「大和屋」(やまとや)の段、『冥途の飛脚』(めいどのひきゃく)「封印切」(ふういんきり)の段などでは、作品の情景を余すところなく描き出した。硬軟自在の芸風で、三味線の魅力を聴衆に察知させた功績は大きく、1972年(昭和47)重要無形文化財保持者に認定された。

[倉田喜弘]

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朝日日本歴史人物事典 「竹沢弥七」の解説

竹沢弥七(7代)

没年:明治9.9.18(1876)
生年:天保2(1831)
義太夫節三味線弾き。紀州(和歌山県)出身。6代目弥七の門弟。前名滝造。明治2(1869)年に大阪・堀江芝居で大三味線を弾き大当たりを取った。追随者が続出し曲弾きが流行したため大阪浄瑠璃界の因講を除名されたが復帰し,7年上京したときに,またもや方二尺(約60cm)の胴の大三味線を弾き評判となった。なお弥七の初代は初代竹沢藤四郎の門弟が18世紀前半に名乗っている。また10代目は昭和期の重要無形文化財保持者。<参考文献>『義太夫年表/明治篇』

(鎌倉惠子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「竹沢弥七」の意味・わかりやすい解説

竹沢弥七(10世)
たけざわやしち[じっせい]

[生]1910.9.12
[没]1976.10.24.
義太夫節の三味線方。本名井上一雄。初め竹豊座に出演,のち御霊文楽座に入座。1936~69年まで 8世竹本綱大夫の相三味線を務め,名コンビとして知られた。この間の 1947年に 10世を襲名し,1950~51年には紋下豊竹山城少掾も弾いた。1972年重要無形文化財保持者(人間国宝)。1976年京都賀茂川のダムで入水自殺した。

竹沢弥七(9世)
たけざわやしち[きゅうせい]

[生]明治1(1868)
[没]1951.3.16.
義太夫節の三味線方。本名平岡勝次郎。 1916年9世を襲名。京都に住み非文楽系の芝居に出勤したが,21年竹豊座閉場に際して引退。のち 47年に3世藤四郎を名のって文楽座に出座した。

竹沢弥七(7世)
たけざわやしち[ななせい]

[生]天保2(1831).8.14.
[没]1876.9.18.
義太夫節の三味線方。6世竹沢弥七の門弟。明治3 (1870) 年には天満芝居で『関取千両幟』の櫓太鼓を新工夫で弾いた。大三味線で有名。

竹沢弥七(1世)
たけざわやしち[いっせい]

[生]?
[没]宝暦4(1754).6.17.
義太夫節の三味線方。1世竹沢藤四郎の門弟。寛延1 (1748) 年の忠臣蔵騒動以後竹本座に出勤,美しい音色で好評を得た。

竹沢弥七(3世)
たけざわやしち[さんせい]

「豊沢広助(1世)」のページをご覧ください。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹沢弥七」の解説

竹沢弥七(10代) たけざわ-やしち

1910-1976 大正-昭和時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
明治43年9月12日生まれ。9代弥七の門弟。大正8年2代団二郎を襲名,文楽座に入座。8代竹本綱太夫の相三味線となり,昭和22年10代を襲名。一時豊竹山城少掾(しょうじょう)の相方をつとめた。47年人間国宝。51年芸術院賞。昭和51年10月24日死去。66歳。京都出身。本名は井上一雄。初名は竹沢一雄。

竹沢弥七(9代) たけざわ-やしち

1868-1951 明治-昭和時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
慶応4年8月14日生まれ。8代弥七の門弟。宗之助,弥造,5代団六,宗六をへて,大正5年9代を襲名。10年竹豊座の閉場で引退したが,昭和22年3代竹沢藤四郎を名のって文楽座に出演した。昭和26年3月16日死去。82歳。京都出身。本名は平岡勝次郎。

竹沢弥七(初代) たけざわ-やしち

?-1754 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
大坂の人。初代竹沢藤四郎の門弟。はじめ竹本座でワキをつとめる。延享2年(1745)から明石越後(えちご)座,陸竹小和泉座で三味線筆頭として出演。いちじ豊竹座にうつったが,寛延元年の「忠臣蔵」騒動で竹本座にもどった。宝暦4年6月17日死去。

竹沢弥七(7代) たけざわ-やしち

1831-1876 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
天保(てんぽう)2年8月14日生まれ。6代弥七の門人。明治2年大阪の堀江芝居で大三味線をひいて評判となる。7年浅草で方2尺の胴の大三味線をひいた。明治9年9月18日死去。46歳。紀伊(きい)出身。初名は滝造。

竹沢弥七(5代) たけざわ-やしち

?-1855 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
和泉(いずみ)(大阪府)堺の人。4代弥七の門弟。天保(てんぽう)6年(1835)5代を襲名。のち4代豊沢権右衛門を称した。安政2年死去。初名は力造。前名は宗六(2代)。

竹沢弥七(4代) たけざわ-やしち

?-1833 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
大坂の人。2代弥七の門弟。文政4年(1821)4代を襲名した。天保(てんぽう)4年8月18日死去。前名は宗六。通称は新町弥七。

竹沢弥七(2代) たけざわ-やしち

?-? 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
大坂の人。初代弥七の弟子。はじめ竹本座につとめたが,豊竹此吉座にうつり,明和7年(1770)2代を襲名した。初名は駒吉。

竹沢弥七(6代) たけざわ-やしち

?-? 江戸後期-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
5代弥七の門弟。文久2年(1862)6代を襲名。初名は滝沢蔵一。前名は竹沢滝蔵。

竹沢弥七(3代) たけざわ-やしち

豊沢広助(とよざわ-ひろすけ)(初代)

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367日誕生日大事典 「竹沢弥七」の解説

竹沢 弥七(7代目) (たけざわ やしち)

生年月日:1831年8月14日
江戸時代;明治時代の義太夫節三味線方
1876年没

竹沢 弥七(10代目) (たけざわ やしち)

生年月日:1910年9月12日
大正時代;昭和時代の浄瑠璃三味線方
1976年没

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