竹本綱太夫(読み)たけもとつなたゆう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹本綱太夫」の意味・わかりやすい解説

竹本綱太夫
たけもとつなたゆう

義太夫節(ぎだゆうぶし)の大夫。名人上手が続出した名跡(みょうせき)である。

[倉田喜弘]

初世

(?―1776)2世竹本太夫の門弟で、1761年(宝暦11)に竹本座へ出演した。

[倉田喜弘]

2世

(1748―1805)『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』や『中将姫古跡(ちゅうじょうひめこせき)の松』を流行させ、猪熊(いのくま)の綱太夫といわれた。

[倉田喜弘]

3世

生没年未詳)飴屋(あめや)の綱太夫で、『艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)』「酒屋」の段、『勢州阿漕浦(せいしゅうあこぎがうら)』などで一世を風靡(ふうび)した。

[倉田喜弘]

4世

(?―1855)江戸堀とよばれ、1812年(文化9)以来、大坂と江戸で名声を博した。

[倉田喜弘]

5世

(生没年未詳)1830年代(天保年間)に出座。対馬太夫(つしまだゆう)から綱太夫を継いだのは68年(明治1)で、主として京都で活躍した。以上はすべて櫓下(やぐらした)級の実力者といえる。

[倉田喜弘]

6世

(1840―83)『卅三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)』や『傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)』を流行させた江戸っ子

[倉田喜弘]

7世

2世竹本津太夫の後名。

[倉田喜弘]

8世

(1904―69)本名生田巌(いくたいわお)。豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)の門弟で、昭和中期を代表する名人。1947年(昭和22)8世綱大夫を襲名。『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』「河庄(かわしょう)」の段、『冥途飛脚(めいどのひきゃく)』「封印切(ふういんきり)」の段といった近松物はもとより、古典の継承、文楽(ぶんらく)の発展に力を注ぎ、55年重要無形文化財保持者に認定された。著書に『でんでん虫』『かたつむり』がある。

[倉田喜弘]

9世

(1932― )本名尾崎忠男(おざきただお)。父は義太夫節三味線をつとめた鶴沢藤蔵(つるざわとうぞう)。1946年(昭和21)8世綱大夫に入門、竹本織の大夫(おりのだゆう)を名のる。竹本織大夫を経て、1996年(平成8)9世綱大夫を襲名。2007年重要無形文化財保持者に認定。近松物を得意とする。

[倉田喜弘]

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「竹本綱太夫」の解説

竹本 綱太夫(8代目)
タケモト ツナタユウ


職業
義太夫節太夫(文楽)

専門
人形浄瑠璃

肩書
重要無形文化財保持者(人形浄瑠璃文楽・太夫)〔昭和30年〕,日本芸術院会員〔昭和44年〕

本名
生田 巌(イクタ イワオ)

別名
前名=豊竹 つばめ太夫(2代目),竹本 織太夫(4代目)

生年月日
明治37年 1月3日

出生地
大阪府 大阪市西区新町

経歴
明治40年女義太夫の稽古に通う父に連れられ、義太夫を覚え始める。44年2代目豊竹古靱太夫(豊竹山城少掾)に入門、2代目つばめ太夫を名乗り、大正6年初舞台。昭和11年10代目竹沢弥七が相三味線となる。13年4代目竹本織太夫を襲名、19年切の字を許される。22年8代目綱太夫を襲名。この間、11年には一時文楽座を脱退し、新義座を結成したが13年に復帰、山城少掾以後の中心的存在として人気を集めた。30年に人間国宝、38年日本芸術院賞を受賞、44年日本芸術院会員。34年には8代目松本幸四郎と「嬢景清八島日記」を試演。著書に「でんでん虫」「かたつむり」がある。

受賞
日本芸術院賞(昭37年度)〔昭和38年〕 紫綬褒章〔昭和43年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和44年〕 毎日演劇賞〔昭和26年〕,芸術祭賞(レコード部門 昭34年度)〔昭和35年〕,大阪芸術賞〔昭和40年〕,上方芸能人顕彰〔昭和55年〕

没年月日
昭和44年 1月3日 (1969年)

家族
息子=豊竹 咲太夫

親族
いとこ=滝 廉太郎(作曲家)

伝記
文楽 二十世紀後期の輝き―劇評と文楽考 内山 美樹子 著(発行元 早稲田大学出版部 ’10発行)


竹本 綱太夫(6代目)
タケモト ツナタユウ


職業
義太夫節太夫(文楽)

本名
斉藤 太市

別名
前名=竹本 錣太夫(タケモト シコロダユウ),竹本 織太夫(タケモト オリタユウ)

生年月日
天保11年

出生地
江戸(東京都)

経歴
嘉永4年初舞台。竹本錣太夫、織太夫を名乗ったのち、明治9年6代目綱太夫を襲名。美声で鳴らし、「佐倉宗吾」を得意芸とした。

没年月日
明治16年 9月24日 (1883年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「竹本綱太夫」の意味・わかりやすい解説

竹本綱太夫 (たけもとつなたゆう)

義太夫節の太夫。8世まである。(1)初世(?-1776(安永5)) 2世竹本政太夫門弟。竹本座退転後,世話物の改作上演を手がけた。(2)2世(?-1805(文化2)) 前名4世竹本紋太夫。1782年(天明2)2世襲名。《合邦》など東風系統の曲を西風に改曲して復活上演を行った。いわゆる綱太夫風は,この2世を中心にして,3世までで確立したものと考えられる。(3)3世 生没年不詳。18世紀末期から19世紀初期に活躍した。2世の門弟。竹本浜太夫,紋太夫を経て,1807年(文化4)綱太夫となる。彼の芸風をあやめ風という。《酒屋》の復活と2世所演の伝承に努めた。(4)6世(1840-83・天保11-明治16) 江戸の人。3世竹本長門太夫門弟であったが一時廃業。のち豊竹岡太夫に師事し,竹本錣(しころ)太夫と称した。その後竹本大和掾に師事。殿母(とのも)太夫,織太夫を経て,1876年に6世を襲名。得意の《佐倉宗吾》の曲を質に入れ,返済するまで語らなかったなど,逸話の多い美音家。(5)7世 2世竹本津太夫の後名。(6)8世(1904-69・明治37-昭和44) 初名竹本春尾。豊竹山城少掾門弟。2世豊竹つばめ太夫,4世竹本織太夫を経て,1947年8世襲名。55年に重要無形文化財に認定された。師に似て知的な芸風で,近松作品の復活に力を尽くした。
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20世紀日本人名事典 「竹本綱太夫」の解説

竹本 綱太夫(8代目)
タケモト ツナタユウ

明治〜昭和期の義太夫節太夫(文楽)



生年
明治37(1904)年1月3日

没年
昭和44(1969)年1月3日

出生地
大阪府大阪市西区新町

本名
生田 巌

別名
前名=豊竹 つばめ太夫(2代目),竹本 織太夫(4代目)

主な受賞名〔年〕
毎日演劇賞〔昭和26年〕,芸術祭賞〔昭和34年〕,日本芸術院賞〔昭和37年〕,大阪芸術賞〔昭和40年〕,上方芸能人顕彰〔昭和55年〕

経歴
明治44年豊竹古靱太夫(山城少掾)に入門、つばめ太夫を名乗り、大正6年初舞台。昭和13年4代目竹本織太夫を襲名、22年8代目綱太夫となった。昭和11年には一時文楽座を脱退し、新義座を結成したが13年に復帰、山城少掾以後の中心的存在として人気を集めた。30年に人間国宝、37年芸術院賞受賞、44年芸術院会員。34年に演じた「日向嶋」は好評の陰に非難もあり、少掾なき後の櫓下にはなれなかった。著書に「でんでん虫」「かたつむり」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「竹本綱太夫」の解説

竹本綱太夫(2代)

没年:文化2.8.16(1805.9.8)
生年:生年不詳
江戸中・後期の義太夫節の太夫。元は京都猪熊の織物屋津国屋甚兵衛。通称猪熊の綱太夫。竹本式太夫の門弟。初名紋太夫。天明2(1782)年豊竹座を退座し京都へ。寛政期(1789~1801)には,大坂で「摂州合邦辻」の「合邦庵室の段」,「花上野誉 の石碑」の「志渡寺の段」,「伊賀越道中双六」の「岡崎の段」,「加々見山旧錦絵」の「長局の段」,「仮名手本忠臣蔵」の「判官切腹の段」などを勤める。「志渡寺」の「爰から拝んで」や「合邦」の「聞く子や妻は内と外,顔と顔とは隔たれど,心の隔て泣寄りの親身の誠ぞ哀成」のくだりの節と情合いは,この人の特色ある表現法として今も伝承される。

(高木浩志)


竹本綱太夫(3代)

生年:生没年不詳
化政期(1804~30)に活躍した義太夫節の太夫。京都の人で,通称飴屋綱太夫。2代目竹本綱太夫の門弟。文化4(1807)年に紋太夫改め3代目綱太夫襲名。文政・天保期(1818~44)には紋下(技芸の統率者)として活躍。天保5(1834)年には,むら太夫に4代目を譲り引退,三綱翁と名乗る。時代と世話の語り分け,音のにじり方が独特で,派手に聞かせたという。「勢州阿漕浦」の「平治住家の段」にその特色が残るといわれる。「艶容女舞衣」の「酒屋の段」の半兵衛の咳に工夫を加えたのは,文化5年といういい伝えがあり,今も伝承される。名跡は昭和期の8代におよび,8代目は人間国宝。

(高木浩志)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹本綱太夫」の解説

竹本綱太夫(6代) たけもと-つなたゆう

1840-1883 江戸後期-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
天保(てんぽう)11年生まれ。義太夫節。3代竹本長門太夫(ながとだゆう)に師事。いったん廃業したが豊竹岡太夫の門にはいり,4代竹本錣太夫(しころだゆう)となる。のち織太夫をへて明治9年6代を襲名。美声で知られ,「柳」「鳴門」などを得意とした。明治16年9月24日死去。44歳。江戸出身。本名は斎藤太市。

竹本綱太夫(2代) たけもと-つなたゆう

?-1805 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節。竹本式太夫の門人で,4代竹本紋太夫をへて天明2年2代を襲名。「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」「中将姫」などを得意とした。文化2年8月16日死去。京都出身。通称は津国屋甚兵衛,猪熊の綱太夫。

竹本綱太夫(3代) たけもと-つなたゆう

?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節。2代の門人で,浜太夫,紋太夫をへて文化4年(1807)3代を襲名。芸風をあやめ風といい,「酒屋」「阿漕(あこぎ)」などを得意とした。京都出身。通称は飴屋万吉,飴屋の綱太夫。号は三綱翁(さんこうおう)。

竹本綱太夫(4代) たけもと-つなたゆう

?-1855 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節。3代の門人で,むら太夫の名で大坂,江戸で出演。天保(てんぽう)6年4代を襲名。安政2年7月26日死去。通称は近江屋吉兵衛,江戸堀。俳号は四綱翁。

竹本綱太夫(初代) たけもと-つなたゆう

?-1776 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節。2代竹本政太夫(まさたゆう)の門人で,宝暦11年竹本座で初舞台。世話物を得意とした。安永5年10月13日死去。通称は平野屋嘉助,新ろうじ。

竹本綱太夫(5代) たけもと-つなたゆう

?-? 江戸後期-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節。4代竹本弥太夫の門人。芝太夫,綱登太夫,紋太夫,津島太夫をへて明治元年(1868)5代を襲名した。

竹本綱太夫(7代) たけもと-つなたゆう

竹本津太夫(たけもと-つだゆう)(2代)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「竹本綱太夫」の解説

竹本 綱太夫(8代目) (たけもと つなたゆう)

生年月日:1904年1月3日
明治時代-昭和時代の義太夫節太夫
1969年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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