アルジェリア戦争(読み)アルジェリアせんそう

改訂新版 世界大百科事典 「アルジェリア戦争」の意味・わかりやすい解説

アルジェリア戦争 (アルジェリアせんそう)

アルジェリア国民が独立を達成するために,フランス政府・入植者に対して行った民族解放運動の最終段階。1954年11月から62年3月まで,約7年半にわたってゲリラ戦争を含む激しい運動が展開され,フランス政府も武力でそれを弾圧しようとしたので,〈戦争〉と呼ばれる。

 戦争の展開は,次のような四つの局面に分けられる。(1)ベン・ベラらの指導による武装闘争の開始後,政治指導と軍事行動の中核としてそれぞれ民族解放戦線FLNと国民解放軍ALNが結成され,ゲリラ活動が国内各地に拡大した。フランス第四共和政の政府は,これを武力で弾圧しようとした。(2)FLNは,1956年から〈アルジェの戦〉と呼ばれたような都市ゲリラ作戦を展開し,また国内外での政治活動を強化した。フランス政府は,軍事力の増強と無差別な大衆弾圧によって,都市のFLN組織に打撃を与えたが,地方のゲリラ兵士は壊滅できず,戦争は泥沼状態に陥った。58年5月フランス軍隊の反乱により,ついに第四共和政が崩壊した。(3)第五共和政を成立させたド・ゴールは,アルジェリア政策を明確にせず弾圧と懐柔によってフランスの権益を維持する道を探ろうとした。これに対してFLNは,フェルハト・アッバースFerhat `Abbāsを首班とするアルジェリア共和国臨時政府をつくり,国際世論への働きかけを強めたが,ALNの主力兵力は国外に退き,武力解放の見通しは立たなかった。(4)60年になってこの均衡状態を打破し,交渉によって和平と独立への道を開こうとする動きがあらわれた。60年1月の入植者の反乱,61年4月の将軍たちのクーデタ,アルジェリア人大衆行動の高揚,フランス国内と世界での独立を支持する世論の台頭が,ド・ゴールの政策転換の背景であり,数次の交渉をへて62年3月エビアンで停戦協定が調印された。入植者のテロ行動はその後も続いたが,同年7月の国民投票をへて,ついにアルジェリアの独立が達成された。

 戦争の意義は,何よりも132年にわたる植民地支配の終焉,つまり独立の達成にあるが,長期間の武力闘争であっただけに影響もまた大きかった。その第1は戦争被害の大きさであり,死者は双方で少なくとも50万(100万ともいう)にのぼり,物的損害と軍事支出も膨大であった。第2は戦争を通じて独立後の権力構造,つまり軍事政権の基礎ができたことである。第3は戦争の過程民族運動社会革命と結びつき,独立後の社会主義的な経済建設の軌道を定めたことであった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルジェリア戦争」の意味・わかりやすい解説

アルジェリア戦争
あるじぇりあせんそう

アルジェリア民族解放戦線(FLN)によって1954年から1962年まで続けられたフランスに対する民族解放戦争。アルジェリアは1830年にフランスによって侵略され、1834年以降その植民地支配のもとに置かれることになったが、以来白人移民(コロン)によるアルジェリア人の土地の収奪が進められ、またアルジェリア人に対する差別的な政策が導入された。この間アブデル・カーデルの反乱をはじめ数多くの抵抗運動が断続的に起こったが、ことごとく鎮圧された。第一次世界大戦後フランスは部分的な改革を実施したがアルジェリア人の多くは満足せず、1926年にはパリ在住アルジェリア人(およびチュニジア人)の間に「北アフリカの星」という名の政治組織が創設され、近代的な民族運動の時代が到来した。「北アフリカの星」は1930年代なかば以降アルジェに本拠を移し、民族運動はいっそう盛り上がったが、第二次世界大戦中ビシー政府の手で運動は弾圧され、「北アフリカの星」の後身であるアルジェリア人民党は禁止された。大戦末期に創設された「宣言と自由の友の会」はアルジェリアの自治を要求したが、戦後の植民地改革にもかかわらず、アルジェリアはあくまでもフランス本土の一部とされたため、民族主義者の不満は限界に達した。

 1954年11月FLNによって東部山岳地帯で開始された武装蜂起(ほうき)は、しだいに全国の農村地帯へ広がり、都市でもサボタージュやテロによる抵抗運動が頻発するに至った。これに対しフランスは、当初延べ5万人にすぎなかったアルジェリア駐留軍を1958年までに50万人余りに増強し、解放闘争の鎮圧を図ったが成功せず、国内世論の分裂、巨額の戦費による財政難などによって、ついに第四共和政そのものの危機を招く結果となった。この危機を打開するためフランスは、1958年2月、宥和(ゆうわ)政策として地方自治の拡大を骨子とする新アルジェリア基本法を成立させたが、これはアルジェリア人を満足させなかったばかりか、かえってアルジェリア駐留フランス軍の反乱を誘発することになった。そこで、軍の支持を背景にドゴール将軍が政権を掌握して、同年10月に第五共和政を発足させた。他方、同年9月にはエジプトのカイロにアルジェリア共和国臨時政府が樹立され、ドゴール政府も9月にアルジェリア自決権を承認し、その後1962年3月の停戦協定(エビアン協定)、同年7月の住民投票を経て、アルジェリアは独立を達成したのである。

[小田英郎]

『ジュール・ロワ著、鈴木道彦訳『アルジェリア戦争』(岩波新書)』『淡徳三郎著『アルジェリア戦争 FLNの7年半』(青木新書)』

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百科事典マイペディア 「アルジェリア戦争」の意味・わかりやすい解説

アルジェリア戦争【アルジェリアせんそう】

1954年から8年間にわたって行われたアルジェリア独立戦争。フランスの植民地支配に耐えかねたアルジェリアの民衆は,1954年アルジェリア民族解放戦線(FLN)の指揮下に武装闘争に立ち上がった。1958年には武装勢力は13万人にのぼり,フランスは80万の兵力と数兆フランの軍事費を投入したが,民族解放戦線は各地に解放区をつくりあげた。1958年フランスでは第四共和政が倒れ,ド・ゴール第五共和政が出現した。一方アルジェリア共和国臨時政府がカイロに成立し,アラブ諸国や社会主義諸国の承認を獲得した。1962年解放戦線・フランス間にエビアン協定が成立,その後もコロンなどフランス右翼勢力の抵抗を排除し,同年7月独立をかちとった。この間アルジェリア人死者は100万に達した。
→関連項目アルジェリアファノンブーメディエン

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルジェリア戦争」の解説

アルジェリア戦争(アルジェリアせんそう)

アルジェリアがフランスからの独立をめざして戦った戦争。社会革命をも伴っているのでアルジェリア革命ともいう。アルジェリア民族解放戦線(FLN)が1954年11月に武装蜂起。ほとんどの政治勢力と圧倒的多数のアルジェリア人の協力を得たこと,アラブ諸国を中心にした国際世論の支持,フランス第四共和政の崩壊(58年)などがあり,ついに62年3月,エヴィアンでド・ゴールのフランス政府と停戦協定に調印,7月独立を宣言した。この戦争は,いわゆる第三勢力の非同盟政策に大きな影響を与えた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「アルジェリア戦争」の解説

アルジェリア戦争
アルジェリアせんそう

フランスからの独立をめざしたアルジェリアの民族解放闘争
1954年民族解放戦線(FLN)が結成されて東部山岳地帯でゲリラ闘争が始まり,農村・都市の民衆の支持を得つつ全土に拡大した。フランスは延べ80万の兵力と膨 (ぼう) 大な軍事費をふりむけたが鎮圧に失敗,かえって政治・社会危機を招き,1958年ド=ゴールの第五共和政を出現させた。ド=ゴールは民族自決主義を認めて同年成立したアルジェリア共和国臨時政府と交渉し,1962年3月エヴィアン協定を締結。現地のフランス人極右派(OAS)の反乱やテロ妨害があったが,7月の住民投票により独立が決定し,約8年の戦争が終結した。

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世界大百科事典(旧版)内のアルジェリア戦争の言及

【第四共和政】より

… インドシナ戦争は,54年,第四共和政下に初めてMRP抜きで政権を担当したマンデス・フランス内閣がジュネーブ会談により終結させた。しかし同年に始まったアルジェリア戦争は第四共和政の崩壊に連なった。58年5月,アルジェリア支配の保持とそのための政府の強化を求めて現地派遣軍や植民者の反乱が起こり,フランス本土へも拡大する状況が生じたとき,政府はなすすべを失い,ド・ゴールに事態の収拾をゆだね,6月1日議会はド・ゴールを首相として信任,その要求に従って翌日彼に全権を付与,さらに3日には憲法改正の方針を承認した。…

※「アルジェリア戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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