米ロ関係(読み)べいろかんけい

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

米ロ関係
べいろかんけい

アメリカ合衆国とロシアとの関係。ソビエト連邦時代は米ソ関係と称した。
 米ロ両国は、ロシア革命(1917)によるソビエト権力樹立以来、資本主義と社会主義との基本的対抗関係から、数々の屈折を経つつも一貫して敵対関係にあったが、わけても第二次世界大戦後、両国が二つの社会体制の盟主として超大国となり、両体制間に「冷たい戦争」状態が現出してからは、1991年のソ連崩壊まで絶えず緊張関係を続けていた。両国は交戦状態に入ったことはないが、戦争寸前に至ったことがある。1950年代なかばの国際緊張緩和の時代や、1970年代前半の一時期の「デタント」時代のように相対的に平穏な関係を保ったこともあり、また関係打開の努力も絶えず行われたが、全地球レベルでの陸・海・空で両国間に激烈な核軍備競争が継続してきた事実に変わりはない。[陸井三郎]

ロシア革命から第二次世界大戦勃発まで

ロシア革命以前からアメリカ・ロシア関係はアジア、とくに満州(現中国東北3省)と朝鮮半島で利害対立の関係にあったが、重大化するほどではなかった。1917年4月、アメリカの第一次世界大戦への参戦で両国はともに連合国側にたったが、7か月後にロシア革命による新ソビエト政権の大戦離脱、ドイツとの単独講和により、アメリカを含む連合諸国(英・仏・日ほか)と社会主義ソ連との関係は厳しい敵対関係に一変した。翌1918年7月、連合国はシベリアにいるチェコ兵救出の名目で、実際には反革命軍援助とソ連領土の一部占領を目的として対ソ軍事干渉を開始した。アメリカの大統領ウィルソンはベルサイユ講和会議で民族自決の原則を主張する立場からもこの干渉計画を躊躇(ちゅうちょ)したが、日本軍の干渉への対抗上シベリアとベラルーシに出兵して占領した。だが、革命に対抗して国内で蜂起(ほうき)していた白衛軍の敗北につれて出兵の根拠もなくなり、アメリカ国内でも撤兵の世論も大きくなったため、他の国々の干渉軍よりも早く1920年に米軍の撤兵を完了した。しかしアメリカ国内では反ソ・反共旋風が急激に高まり、赤狩りとフレーム・アップ事件が相次いだ。
 ロシア革命後初期の米ソ関係について見落とすべきでないのは、両国政府関係についてはともかく、アメリカの多くの知識人、青年、技術者、労働者が革命に共鳴して、初期社会主義建設に物心両面で協力した事実である(ロシア革命に関する古典的名著『世界を震撼(しんかん)させた十日間』のジョン・リード、後の全米自動車労組(UAW)会長ウォルター・ルーサー、天才的舞踏家イサドラ・ダンカンなどはそのうちの著名人の一部にすぎない)。しかし、第一次世界大戦後1920年代に最大の債権国としてアメリカが空前の繁栄を祝福していた間は、米ソ関係を打開する条件は熟さず、主要な資本主義諸国がソ連を承認したあとも、アメリカだけはソ連不承認の原則をとり続けた。しかし1929年秋に始まる大恐慌の深まるなかで、アメリカでも初めてソ連市場に過剰生産のはけ口を求める世論が高まり、とりわけソ連の第一次・第二次五か年計画の成功とその恐慌免疫性が、アメリカにソ連不承認政策を改めさせる気運をつくった。1932年11月フランクリン・D・ルーズベルトは大統領選挙戦に勝利すると、大統領に就任する以前に早くもソ連リトビノフ外務人民委員(外相)を招き、関係打開の交渉を開始した。こうして1933年11月、ルーズベルト政権は、(1)アメリカ国内でコミンテルン活動を行わないこと、(2)旧債務を履行すること、などをソ連側に承認させたうえで国交関係樹立に踏み切った。しかしアメリカ国内の不況にもかかわらず、1930年代を通じて米ソ貿易は期待するほどには進展せず、アメリカは日本、ドイツのファシズム膨張政策への対抗上、1937年以降は軍拡政策に向かった。
 第二次世界大戦まで数年間の米ソ関係は、かなり複雑であった。ヒトラーのファシズム台頭のなかでソ連は英仏などとの集団安全保障を呼びかけたが、英仏はヒトラー宥和(ゆうわ)政策をとり続け、アメリカはヨーロッパへの不干渉政策をとっていた。1939年8月、ソ連は反ナチスの原則を便宜的に一時棚上げして、孤立化を避けるためヒトラー・ドイツと不可侵条約を締結、翌9月ドイツが第二次世界大戦を引き起こすと、ソ連はポーランド東部に侵入してドイツとともにポーランドを分割、さらにドイツのノルウェー占領に対抗して、ソ連はフィンランドに侵攻した。その間アメリカはしだいに英仏側に傾斜し、国内では下院に反ソ・反共の非米活動委員会を設置し、英仏を支援し、フィンランドを支援したが、1941年3月、アメリカは武器貸与法で本格的に英仏援助を開始、同年6月独ソ開戦となると、ソ連も英仏側としてアメリカの支援を受けるようになった。[陸井三郎]

第二次世界大戦と米ソ

日本の真珠湾攻撃で、米ソは英仏などとともに完全に連合国となり、アメリカは連合国の兵器廠(しょう)の役割を果たすことになるが、アメリカの対ソ援助のサボタージュ、ヨーロッパにおける第二戦線の設定の時期、さらに戦後世界秩序の構想などをめぐり、米英とソ連との関係は、カイロ、テヘラン、ダンバートン・オークス、ヤルタ、ポツダムなどの巨頭会談にもかかわらず円滑には運ばず、結局は戦後の「冷たい戦争」を伏在させたまま戦争終結を迎えた。とくに対日戦終結前のポツダム会談では、ルーズベルト急死のあと反ソ的な大統領トルーマンが原爆開発の成功にたって会談に臨み、一方スターリンも、東欧諸国をドイツ軍から解放した実績のうえに会談に臨んだため、戦後の冷戦はむしろ必然の成り行きとなった。[陸井三郎]

冷戦期

第二次世界大戦後、二つの超大国となった米ソは、世界の多くの地域で激烈な冷戦と競争を引き起こした。戦後米ソの勢力圏は要するに、ヤルタ会談などの結果であるよりは、第二次世界大戦終結時における軍事力と占領との結果の反映にほかならなかった。
 まずドイツは、ソ連と米英仏との占領の結果に基づいて二つのドイツに分割され、ソ連占領下のベルリンだけが不自然に4国共同管理のもとに置かれ、ベルリンの壁崩壊と、続く西ドイツによる東ドイツ吸収(1989~1990)まで、この状態が続いた。1948年のベルリン危機は、対立の最初の発現であった。朝鮮半島についても同様で、米ソの南・北占領が朝鮮の分割をもたらした。1946年3月、イギリスのチャーチルは有名なフルトン演説で「鉄のカーテン」の語を初めて用い、翌1947年3月、トルーマン・ドクトリンの発動によって、アメリカは内戦下のギリシアとトルコを防衛線として両国への援助計画を開始し、ヨーロッパにおける冷戦が本格化した。同年6月、米国務長官マーシャルはヨーロッパ復興援助計画(マーシャル・プラン)を公表、ソ連・東欧の共産主義に対抗する資本主義西欧の再建と統合(後のEU)にアメリカの指導で着手した。それは1949年の北大西洋条約機構(NATO(ナトー))結成によって、軍事的にも裏打ちされた。ソ連も対抗的に東欧諸国と通商援助協定を結び、1947年には戦時中の連合諸国との協力のため解散していたコミンテルンをコミンフォルムという形で再建し、さらに1949年にはソ連東欧経済相互援助会議(通称コメコン)を結成して社会主義陣営の結束を図った。それはやがて1950年2月の中ソ友好同盟相互援助条約、またNATOに対抗した1955年のワルシャワ条約機構へと発展した。
 トルーマン・ドクトリンの発動でアメリカは、朝鮮の分割と沖縄の持続的軍事支配、朝鮮戦争(1950~1953)、日本の単独占領に基づく単独講和と日米安保条約(1951)、アンザス(ANZUS)条約などを結成、インドシナ戦争(1946~1954)への実質介入と東南アジア条約機構(SEATO(シアトー)、1954)と1955年の中東条約機構(後の中央条約機構=CENTO(セントー))などの結成によって、対ソ連包囲網を完成する。中国革命後は、これに対中国封じ込め政策が加わった。
 アメリカの対ソ包囲網を突破しようとしたのが、1957年、アメリカ本土を直撃しうるソ連の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実験成功であった。これよりさき、ソ連は、アメリカより4年遅れて最初の原爆実験に成功(1949)、1953年にはアメリカに先んじて運搬可能な水爆の開発に成功(アメリカは1954年)、こうして米ソ間には核軍備とその運搬手段をめぐる激烈な競争が始まり、基本的にはこの競争は悪化の一途をたどって冷戦終結時まで続いた。もとよりその間、ときに緊張緩和の時期が訪れたこともある。1953年の朝鮮休戦から翌年のインドシナ休戦に続く時期には、1955年に戦後初めての四大国首脳会談が平和共存のジュネーブ精神をうたい上げ、また1959年にはアイゼンハワー‐フルシチョフ会談によってキャンプ・デービッド精神が祝福されたが、その間にも1956年の英仏のスエズ侵攻に対するフルシチョフのロケット外交、ダレスの「巻返し」戦略とハンガリー動乱への介入、台湾海峡危機など、戦争瀬戸際の危機が繰り返された。[陸井三郎]

危機とデタントとの循環――1960年代から1980年代まで

ケネディ政権によるキューバ革命干渉の失敗に続く1962年のキューバ・ミサイル危機は、フルシチョフの譲歩で解決したが、以後四半世紀にわたり米ソ関係は、危機と関係改善(デタント)との間を揺れ動いた。ケネディ政権は米正規軍を初めて南ベトナムに派遣、ケネディ暗殺後のジョンソン政権はベトナム戦争エスカレーションを強め、1967~1968年には56万もの米軍派遣で戦争は泥沼化したが、その間、中ソ両国は互いに対立を激化させつつも、アメリカとの対立を決定的にしない程度に個別にベトナム援助を続けた。アメリカは中ソを非難しつつも、戦争勝利のため両大国との関係破局化を避けようとし、ここにソ連とのABM制限条約、宇宙制限条約と宇宙開発協力の生まれる条件があった。またベトナム戦争出費を一要因として、西欧諸国と日本は空前の経済的繁栄を謳歌(おうか)し、アメリカ経済は相対的に地盤沈下していくが、次のニクソン‐キッシンジャー政権はこれらの不利を逆用して強引な政略を展開した。ベトナムを中ソから孤立させるため、ニクソン外交は中ソを対立させつつ、両国と個別に北京(ペキン)・モスクワ訪問でデタントを築き、ソ連との間では戦略兵器制限条約(SALT(ソルト))を締結、また中国の国連議席回復を認めた。ベトナム戦争の遂行ではニクソン・ドクトリンによる米兵力投入にかわる火力増強にも失敗して、アメリカは結局、パリ協定締結の1973年1月で休戦し、2年後の1975年4月には最終的に敗北した(サイゴン陥落)。フォード、カーター両政権時代にも米ソ関係の改善は図られ、たとえばSALT‐が調印されたが、1979年末のソ連軍のアフガニスタン侵攻により米ソ関係はふたたび悪化、SALT‐は米議会で批准されずに終わった。
 レーガン政権時代(1981~1989)は、戦後米ソ関係史において、1950年代のダレス外交期にも劣らぬ険悪化の時代であった。西欧5か国への中距離核ミサイル(INM)配備とソ連SS20との対決、北西太平洋、オホーツク、日本海での米ソ核対決に加えて、レーガンの戦略防衛構想(SDI)が、現に宇宙空間への米ソ軍事対決の拡大を暗示するに至った。加えて中米ニカラグア、アフリカ・中東諸国をめぐっても対立は激化した。しかし、レーガン政権の対ソ戦略的大軍拡は、国内の世論や学界ばかりでなく財界からもアメリカ経済への負担過重および欧日との経済競争力低下の要因として批判が増大した。また2期目に入った大統領レーガンも平和の使徒として記憶されることを願う気配となり、一方のソ連でもゴルバチョフ政権が国内経済活性化のために軍縮と平和を希求する政策に積極的に乗り出した。1985年11月に久しぶりにレーガン‐ゴルバチョフによる米ソ首脳会談がジュネーブで実現し、長く絶えていた米ソ文化交流、民間航空機相互乗り入れ、経済交流再開も緒についた。この会談そのものは軍縮と平和について具体的に実りのあるものではなかったが、翌1986年10月の両首脳のレイキャビーク会談で核軍縮への話し合いの準備工作が行われ、数次の交渉を経て1987年秋にはINF(中距離核戦力)全廃の基本合意が成立、同年12月ゴルバチョフが訪米してINF全廃条約の調印が行われた。[陸井三郎]

ソ連崩壊後の米ロ関係

1980年代末の東ヨーロッパ諸国の体制崩壊に続くソビエト体制の瓦解(がかい)は、第一義的には体制の優劣による結果であるよりはむしろ、相対的に劣弱な経済力のソ連が長年にわたる過重な軍備負担を強いられたことによるものであった。その意味ではソ連の崩壊による冷戦の終結は、アメリカの軍備増強の勝利という側面をもっていた。ともあれ、冷戦終結により、アメリカと西側諸国では、ロシアとの間で新しい経済・政治協力関係をつくろうという気運が生まれたが、他方のロシアでは、革命前の帝政ロシア時代から、正常な資本主義も政治的民主主義も成熟していなかったため、体制の崩壊とともに政治も経済も混迷に陥った。ソ連のなかでバルト三国をはじめベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンなどが相次いで独立し、ロシアおよびアメリカや西側諸国と外交関係を結んだ。またアメリカは1999年3月にNATO正式加盟したポーランド、チェコ、ハンガリーに続いて2004年にはルーマニア、スロベニア、バルト三国、ブルガリア、スロバキアを加入させ、さらに東欧・旧ソ連諸国を加盟させる方向にあるが、ロシアはこの動きに反対している。アメリカなど西側諸国は、1997年のデンバー・サミットからロシアを先進国首脳会議の正式メンバーに加えて、ロシアとの協力の姿勢をみせている。しかし、資本主義の経済的経験をもたないロシアでは、国民経済の大きな部分をマフィアが支配し、また社会主義下の社会保障制度の基幹部分の瓦解と激烈なインフレーションは、一方で極端なヤミ富裕層と他方の極貧層、それに大量失業とをつくりだした。これらの政治的、経済的、社会的課題の山積みのために、アメリカとロシアとの関係は、当初双方が期待したほどには進展しておらず、また今後も急速に進展するとは期待しがたい状況にある。[陸井三郎]
『E・H・カー著、喜多村浩訳『西欧を衝くソ連』(1950・社会思想研究会出版部) ▽E・H・カー著、井上茂訳『危機の二十年――国際関係研究序説』(1952・岩波書店) ▽陸井三郎著『社会主義対資本主義』(1958・光文社) ▽永井陽之助著『冷戦の起源』(1978・中央公論社) ▽油井大三郎著『戦後世界秩序の形成』(1985・東京大学出版会) ▽伊東孝之、林忠行著『ポスト冷戦時代のロシア外交』(1999・有信堂高文社) ▽阿南東也著『ポスト冷戦のアメリカ政治外交』(1999・東信堂)』

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