日本歴史地名大系 「米子城跡」の解説
米子城跡
よなごじようあと
〔中世〕
築城の嚆矢は応仁―文明(一四六七―八七)出雲国守護代尼子氏と伯耆山名氏との合戦の際、山名氏により雲伯国境警備の砦として築かれた
古引氏により、新たに湊山に中心城館の建設が着手されたとされる(伯耆民談記)。年未詳一二月一三日付の吉川広家自筆書状(吉川家文書)では「先年一乱之刻、伯州湊山可抱之催堅固ニ候通」とみえ、湊山城を守りとおした祖式長好に一休墨跡を与えて労をねぎらっている。また年月日欠の吉川広家自筆覚書(同文書)には「富田湊山森山内之用之事」とみえ、時期ははっきりしないものの天正一五年以降伯耆西半を領した吉川広家の下で、湊山に城が移されていたことがわかる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報