米子城跡(読み)よなごじようあと

日本歴史地名大系 「米子城跡」の解説

米子城跡
よなごじようあと

[現在地名]米子市久米町

米子市西部、新加茂しんかも川河口部北岸にあり、西は中海に面する。国道九号がいい山とみなと山の間を南北に縦断している。現在建物類は残っておらず、城跡一帯は市営湊山みなとやま球場やテニスコートなどのある湊山公園となっている。築城の時期は室町期にさかのぼるともされ、近世城郭としての姿は天正(一五七三―九二)後期からの吉川氏支配下、および慶長五年(一六〇〇)城主となった中村氏のもとで整えられた。寛永九年(一六三二)以降は鳥取藩家老で着座家筆頭の荒尾(米子荒尾氏)の城となり、西伯耆支配の要となった。湊山城、久米くめ城とも称されたという。

〔中世〕

築城の嚆矢は応仁―文明(一四六七―八七)出雲国守護代尼子氏と伯耆山名氏との合戦の際、山名氏により雲伯国境警備の砦として築かれた飯山いいのやま城とされる。同城は近世米子城の本丸が置かれた湊山の東側にある独立丘陵飯山(五九・二メートル)に築かれた砦で、合戦記類に記される中世米子城は飯山城のことであるという(伯耆民談記)。ただし飯山の城名を記す同時代の史料は見当らず、また昭和六三年(一九八八)の久米第一遺跡の発掘調査から、一五―一六世紀には湊山北西海側で埋立てが行われ、なんらかの施設が構築されていたと推定される。「出雲私史」には尼子清定に反撃された伯耆の山名勢が、文明二年敗退して米子城に入ったと記しているが、これも飯山城であろう。永禄(一五五八―七〇)頃の城主山名治部大輔之秀は同一二年尼子勝久の出雲奪回の戦いに加わった。吉川氏の軍勢に敗れた勝久が飯山城に籠ったのち播磨へ逃れた時、之秀は城中で自刃したという(伯耆民談記)。また元亀二年(一五七一)には毛利方の福頼治部大輔元秀(孝興とも)が在城しており、同三月一八日尼子方の羽倉元陰らの攻撃を受けて城下の町屋が焼失した(陰徳太平記)。その後毛利氏の将吉川氏の家臣古引(古曳)長門守吉種が当城に配された(伯耆民談記)

古引氏により、新たに湊山に中心城館の建設が着手されたとされる(伯耆民談記)。年未詳一二月一三日付の吉川広家自筆書状(吉川家文書)では「先年一乱之刻、伯州湊山可抱之催堅固ニ候通」とみえ、湊山城を守りとおした祖式長好に一休墨跡を与えて労をねぎらっている。また年月日欠の吉川広家自筆覚書(同文書)には「富田湊山森山内之用之事」とみえ、時期ははっきりしないものの天正一五年以降伯耆西半を領した吉川広家の下で、湊山に城が移されていたことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「米子城跡」の解説

よなごじょうあと【米子城跡】


鳥取県米子市久米町にある城跡。米子市街地の西側、中海に突き出す標高約90mの湊山と標高約60mの飯山に築かれた、戦国末期から近世の平山城跡で、始まりは中世の砦と伝えられている。西伯耆(にしほうき)・東出雲(ひがしいずも)・隠岐(おき)を領した吉川(きっかわ)広家が、西伯耆支配の拠点として1591年(天正19)に築城を開始したが、広家は築城半ばで防州岩国へ転封された。新しい領主として中村一忠(かずただ)が入城し、1602年(慶長7)ごろに完成したとされる。その後、池田光仲が因幡(いなば)・伯耆の領主となり、家老の荒尾家が代々米子城を預かり、明治維新まで続いた。米子城跡は、文献・絵図などの資料が多く残っており、近世初期の城郭構造をよく知ることができる。資料から、東西南北約700mの規模で、三の丸は水堀をめぐらせ、本丸には五重の天守と四重の櫓(やぐら)が並び建っていたと考えられる。米子城跡は、西伯耆支配の拠点城郭であり、戦国末期から近世初頭の形態をよくとどめている平山城跡として重要とされ、2006年(平成18)に国の史跡に指定された。明治時代に城の建物は壊され、現在は石垣だけが残っている。JR山陰本線ほか米子駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典・日本の観光資源 「米子城跡」の解説

米子城跡

(鳥取県米子市)
伝えたいふるさと鳥取の景観100景」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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