十和田市(読み)トワダシ

デジタル大辞泉 「十和田市」の意味・読み・例文・類語

とわだ‐し【十和田市】

十和田

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「十和田市」の解説

十和田市
とわだし

面積:三一八・四一平方キロ

太平洋と八甲田はつこうだ連峰との間、青森県南内陸部の東寄り中央に位置する。西は上北郡十和田湖町および八甲田山麓に続いて青森市、南は三戸さんのへ五戸ごのへ町・倉石くらいし村・新郷しんごう村、北は上北郡七戸しちのへ町、東は同郡六戸ろくのへ町・上北町に接する。

地形は概して西に高く東に低い。市の中心部は東西に延び平坦かつ広大な三本木さんぼんぎ台地に位置する。市街地はこの台地に発達し、台地南部を十和田湖に源を発する相坂おうさか(奥入瀬川の地域称)が東流する。台地は北と南へいくに従い緩い下降勾配をなし、北端部には砂土路さどろ川、南端部には後藤ごとう川が東流する。相坂川の南部一帯は緩い丘陵を形成し、北西および南西部の二岐部はともに八甲田連峰に延び、しだいに丘陵が険しくなる。当地域は八甲田連峰の火山噴出物の堆積によってでき、扇状地帯としては開析谷が多い。水田は開析谷に沿って河川下流に多く、開析谷頭部は未開発状態のままで土地の生産性は低い。

〔原始・古代〕

市域内の遺跡は「青森県遺跡地名表」によれば三六ヵ所、「十和田市史」では四四ヵ所を数える。分布は三本木台地の中心をなす市街地と八甲田山付近を除く地域にわたり、なかでも奥入瀬おいらせ川・後藤川・砂土路川の流域に多く散在する。最古の遺跡は縄文早期の明戸あけど遺跡で、後藤川流域の滝沢たきさわ字明戸にあり、前・後・晩各期の遺物も出土した。前期に属するものでは奥入瀬川流域の赤沼あかぬま寺上てらのうえの寺上遺跡で、多数の土器や石鏃・石匙などが出土。また、滝沢字川原かわら川原遺跡からは国の重要文化財に指定された縄文晩期の壺形土器が出土した。平安時代の遺物には相坂や洞内ほらないから出土した土師器がある。現在、市周辺に丁塚または長塚ともいわれる塚、あるいは地名・屋号が残っており、いずれも往時の街道筋に沿ってみられるところから村落の発達を推定させる。

〔中世〕

源頼朝の奥州征伐の功により、建久二年(一一九一)南部光行が糠部ぬかのぶに入ったと伝えられ、光行に同行した対馬(津島)平次郎景満について参考諸家系図(岩手県盛岡市中央公民館蔵)に「本国尾張熱田郡津島ノ人也甲斐ニ到テ光行公ニ仕フ。建久二年十二月従テ糠部ニ来ル、翌年再甲斐ニ至テ八幡宮ヲ奉テ来テ同郡滝沢村ニ勧請ス」とあり、「南部史要」にも「建久二年対馬景満等ニ命じて、甲州なる氏神正八幡宮を糠部郡滝沢村に勧請す」とみえるが、光行の入部については疑問がある。現在、中渡なかわたり八幡宮の近くに対馬平次郎景満の墓があり、滝沢字たて法性ほうしよう寺には位牌がある。


十和田市
とわだし

2005年1月1日:十和田市と上北郡十和田湖町が合併
【十和田湖町】青森県:上北郡
【十和田市】青森県

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「十和田市」の意味・わかりやすい解説

十和田〔市〕
とわだ

青森県南部,奥入瀬川上・中流域に位置する市。 1955年三本木町と大深内村,藤坂村の2村が合体,三本木市として市制。同年四和村と合体し十和田市と改称。 2005年十和田湖町と合体。北西端は八甲田山麓に伸び,南西端は十和田山麓まで広がっている。安政2 (1855) 年盛岡藩士,新渡戸伝 (にとべつとう) が私財を投じて稲生川を開削して奥入瀬川の水を引き入れ,三本木原の開拓に着手。のち約 100年をかけて,原野の水田化,畑地化が行なわれた。米,ジャガイモ,豆類を産するほか,乳牛の飼育が行なわれている。古くはウマの産地として知られ,大規模な馬市が開かれていた。市の西部は十和田八幡平国立公園に属し,十和田湖温泉郷などがあり観光の重点地となっている。市の中央部を国道4号線,45号線,102号線が通り,青森市,八戸市,弘前市の県内主要都市へ通じている。三沢市より十和田観光電鉄が通じる。面積 725.65km2。人口 6万378(2020)。

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