米野村(読み)こめのむら

日本歴史地名大系 「米野村」の解説

米野村
こめのむら

[現在地名]いわき市小名浜おなはま 古湊こみなと小屋こやうちいり観音作かんのんさく播摩作はりまのさくてらわき御殿後ごでんご元陣屋敷もとじんやしき弥木太郎台やぎたろうだい小名浜港ヶ丘おなはまみなとがおか

南は太平洋、東は下神白しもかじろ村、北は岡小名おかおな村、西は小名川を境として中島なかじま村に接する。中島村から小名川を渡って東に向かった道は、丘のふもとで南に折れ、さらに東に延びる。途中二手に分れ、一方は山手へ、他方は古湊川を越え東坪ひがしつぼを抜けて浜への道となり、いずれも山越えして下神白村へ通じる。山手の道は上り坂となり洞門に至る。長さ二六間・幅二間四尺・高さ一丈一尺余の洞門は、米野村・下神白村が願主となって、代官所願書が出され、米野村の一野屋治左衛門が私財を投じて工事が行われた。寛延三年(一七五〇)八月に工を起こし、翌宝暦元年(一七五一)に完成した。所要日数三〇〇日余・人足三千人余、出金は五四両二分。そのほか人足の賄の煮たき、振舞酒など一野屋がすべて引受けたという。

磐前いわさき郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)以降幕府領。文禄四年(一五九五)の岩城領小物成目録(秋田県立秋田図書館蔵)によれば、塩九駄、大船三・小船一がある。元和八年(一六二二)以降の内藤氏の支配時代には小名浜四ヵ村の浜方支配のため、津奉行を配し、海を一望する村の丘陵部に役所を置いた。


米野村
こめのむら

[現在地名]富士見村米野

現富士見村の南西部に位置し、東は吾嬬あづま川をもって引田ひきだ村、南は田口たぐち(現前橋市)に接し、西は箱田はこだ(現北橘村)たちばな(赤見川)をもって接する。沼田街道が南北に通り、当地で東へ大胡おおご(現大胡町)への道、西へ三国街道枝道が分岐する。近世には米野宿として栄えた。村名はシノノイ村、ヤジノ村、コメノ村と変遷したともいわれるがつまびらかでない。古くには字吹張ふつぱりの地に農業を営む集落があったと伝える。戦国期には当地も戦場となり、要害も構えられていた(加沢記)。字丸山まるやま丸山城跡があり、関連が考えられる。「寛文朱印留」に村名がみえ前橋藩領(幕末に至る)。寛文郷帳によると田方二五〇石余・畑方一〇三石余。天和三年(一六八三)山口やまぐち村を分村したため、元禄郷帳では高三〇六石余。桑園が多く養蚕業が盛んで、共同生糸揚場もあった。酒造業を営む者もおり、天保三年(一八三二)の酒造議定(三川文書)に連名したなかに当村の二名が含まれる。


米野村
こめのむら

[現在地名]中村区米野町・上米野かみこめの町・下米野しもこめの町・権現ごんげん通・平池ひらいけ町・大正たいしよう町・黄金こがね通・西米野にしこめの町・ふたはし町・熊野くまの町・深川ふかかわ

牧野まきの村の西にある。東に笈瀬おいせ川、中央部に米野用水が流れ、やなぎ街道が南西端へ抜ける。村域部に上米野・下米野の二集落があり、枝郷平池が笈瀬川の東にある。

文和三年(一三五四)の熱田社領目録案(熱田神宮文書)に「愛知郡薦野郷田畑四町壱段」とあることから、近世諸地誌はともに中世における神領地を想定し、薦を米にあてたとしている。弘化三年(一八四六)の村絵図(徳川林政史蔵)によれば、村南部には、小栗海道ともいわれる古海道(跡)が記されており、中世以前に開けた地である。


米野村
めのむら

[現在地名]鹿央町合里あいざと

米野山の南裾に位置し、北は坂田さかた(現山鹿市)、東は下米野村など、南は姫井ひめい村と接する。「和名抄」の山本やまもと三重みえ郷、「延喜式」(兵部省)の三重駅は当地に比定される。また「台記」久安六年(一一五〇)一一月三〇日条にみえる「肥後国三重屋庄」も一説では当地一帯に比定されるが、肥前国三重屋みえや(現佐賀県佐賀市)の誤りともいう。村名は「延喜式」(兵部省)にみえる蛟藁かわら(米野嶽)駅に由来すると思われる。近世は玉名たまな郡中富手永に属する。「国誌」に「里俗寺米野村ト云、岩倉ト云小村アリ」とある。宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳によると田畠屋敷合せて六〇町二反八畝余、ほかに二六町七反九畝余があり、高四六六石七斗余。


米野村
こめのむら

[現在地名]笠松町米野

江川えがわ村の東、木曾川北岸に位置。永正一四年(一五一七)八月一〇日の孫左衛門売券(立政寺文書)に「こめ野」とみえ、「ありつほ」所在の畠地と合せて一段が立政りつしよう(現岐阜市)に売渡されている。年未詳九月二一日の粟津勝兵衛書状(浄安寺文書)には「こめの願正」がみえ、当地にも一向宗門徒集団があったことが知られる。慶長郷帳に村名がみえ、高二三一石。


米野村
こめのむら

[現在地名]大垣市米野町

揖斐いび川右岸、新規しんき川左岸の低平地、大垣輪中の南部に位置し、東は古宮ふるみや村。当初は米野新開・米野新田といった。古宮村の荒地に開かれ、寛永一六年(一六三九)古宮村から分村(「米野新田申付条々」奥田文書)。江戸時代には大垣藩領。正保郷帳に米野新開とみえ、田高四〇四石余・畑高一八石余、のち米野新田と称するが、米野村と改称(座右秘鑑)。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では米野村とみえ、高五〇六石余。


米野村
こめのむら

[現在地名]西尾市米野町

市の東端に位置し、矢作古やはぎふる川の左岸の沖積地に開けた集落よりなる。北は西浅井にしあさい村、東は中島なかじま(現岡崎市)、南は尾花おはな村、西は小島おじま村に接する。慶長一〇年(一六〇五)行われた矢作川の改修によって川筋が東から西に移り、対岸の小島村と境を接するに至り、広田こうた川・安藤あんどう川の悪水路が整い開拓をみた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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