16世紀末から17世紀初頭の海外貿易商人。生没年不詳。菜屋・魚屋とも書き,また助右衛門ともある。納屋は納屋衆で,堺の海岸に倉庫を有した豪商か。《太閤記》によると,1594年(文禄3)ルソン(呂宋)から帰り,堺代官石田木工助を通じ唐傘・蠟燭1000挺・生麝香2疋・真壺50を豊臣秀吉に献上した。秀吉は大坂城西丸の広間に並べ,千利休らに値段をつけさせて諸大名らに分けたので,助左衛門は5,6日にして徳人になったという。この記事には死亡したはずの千利休が見えるなど疑問もあるが,この年呂宋壺売却がなされたことには裏付けがあり,まったく否定はできない。のち豪奢が秀吉の怒りにふれ没落したが,1607年(慶長12)柬埔寨国(カンボジア)よりの来書に,日本船主助左衛門が来航し,国王の信任を得て,商人の頭目に任じられたとあり,これを納屋助左衛門に比定する説もある。その事跡から呂宋(ルソン)助左衛門の異名をもつ。
執筆者:朝尾 直弘
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生没年未詳。安土(あづち)桃山・江戸前期の貿易商。東南アジアとの交易により巨利を得たことから呂宋(るそん)助左衛門ともよばれた。堺(さかい)の富裕な商人の集まりであった納屋衆の一員であったことに納屋の名の由来がある。『太閤記(たいこうき)』によれば、1594年(文禄3)ルソン(フィリピン北部)より帰国すると、堺代官石田木工助(もくすけ)を通じ唐傘(からかさ)、蝋燭(ろうそく)1000挺(ちょう)、生麝香(じゃこう)二頭を豊臣(とよとみ)秀吉に献上した。秀吉はこのときもたらされた呂宋壺(つぼ)50を大坂城西の丸の広間に陳列して所望の諸大名に買い取らせたため、助左衛門は5、6日にして有徳人になったという。のち奢侈(しゃし)を極めたため秀吉の怒りを被り、ついに一家没落の悲劇にあった。その際、壮麗な居宅を堺の大安寺に寄進した。1607年(慶長12)柬埔寨(カンボジア)国からの国書に、国王の信任を得て、商人の頭目に任じられた日本船主助左衛門の名がみえ、これを納屋助左衛門とする説がある。
[小林保夫]
(中田易直)
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呂宋(ルソン)助左衛門とも。生没年不詳。織豊期の堺の貿易家。納屋氏は堺の上層市民,納屋衆の出身。「太閤記」などによると,1593年(文禄2)にルソンへ渡航して同地の珍貨をもたらし,豊臣秀吉に献上した。このとき舶載した真壺(まつぼ)(呂宋壺)は茶道の珍器としてもてはやされ,巨利を博したという。その後,秀吉の忌諱にふれ失脚したが,1607年(慶長12)カンボジアに渡航し,同地の国王の信任を得たといわれる。
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