細川 嘉六
ホソカワ カロク
- 肩書
- 参院議員(共産党)
- 生年月日
- 明治21年9月27日
- 出生地
- 富山県下新川郡泊町(現・朝日町)
- 学歴
- 東京帝大法学部政治学科〔大正6年〕卒
- 経歴
- 住友総本店に入社後、読売新聞、東京帝大助手を経て、大正10年大原社会問題研究所研究員となった。植民地問題、労働問題の研究、調査に従事。15年ヨーロッパ留学、モスクワで会った片山潜に勧められ、帰国後、富山県から始まった米騒動の研究に専念。昭和8年共産党シンパとして治安維持法違反で検挙され有罪判決。大原社研の解散後、満鉄調査部嘱託、昭和研究会にも参加、風見章、尾崎秀実らと中国研究所を設立したが、17年雑誌「改造」8、9月号に発表した「世界史の動向と日本」が陸軍情報部の忌諱にふれ、共産主義者の疑いで検挙され、横浜事件の発端となった。20年釈放され日本共産党に入党、22年全国区参議院議員に当選、25年再選、共産党国会議員団長を務めた。26年占領軍命令で公職追放された。社会科学研究所長も務めた。著書には「アジア民族論」「植民史」のほか「細川嘉六著作集」(全3巻)などがある。
- 没年月日
- 昭和37年12月2日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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細川 嘉六
ホソカワ カロク
昭和期の評論家,社会運動家 参院議員(共産党)。
- 生年
- 明治21(1888)年9月27日
- 没年
- 昭和37(1962)年12月2日
- 出生地
- 富山県下新川郡泊町(現・朝日町)
- 学歴〔年〕
- 東京帝大法学部政治学科〔大正6年〕卒
- 経歴
- 住友総本店に入社後、読売新聞、東京帝大助手を経て、大正10年大原社会問題研究所研究員となった。植民地問題、労働問題の研究、調査に従事。15年ヨーロッパ留学、モスクワで会った片山潜に勧められ、帰国後、富山県から始まった米騒動の研究に専念。昭和8年共産党シンパとして治安維持法違反で検挙され有罪判決。大原社研の解散後、満鉄調査部嘱託、昭和研究会にも参加、風見章、尾崎秀実らと中国研究所を設立したが、17年雑誌「改造」8、9月号に発表した「世界史の動向と日本」が陸軍情報部の忌諱にふれ、共産主義者の疑いで検挙され、横浜事件の発端となった。20年釈放され日本共産党に入党、22年全国区参議院議員に当選、25年再選、共産党国会議員団長を務めた。26年占領軍命令で公職追放された。社会科学研究所長も務めた。著書には「アジア民族論」「植民史」のほか「細川嘉六著作集」(全3巻)などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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細川嘉六
ほそかわかろく
(1888―1962)
社会評論家。富山県生まれ。東京帝国大学を経て大原社会問題研究所に入り、米騒動、植民地問題研究に労作を残した。1942年(昭和17)の雑誌『改造』論文「世界史の動向と日本」が陸軍報道部から共産主義の宣伝として弾圧され、横浜事件の発端となる。第二次世界大戦後1947、1950年(昭和22、25)の参院選に共産党から出馬し当選。アメリカ帝国主義批判演説をして、1951年マッカーサーの圧力により辞任を余儀なくされた。好んで河童(かっぱ)の絵をかき「カッパ老人」と称された。
[荒川章二]
『『細川嘉六著作集』全3巻(1972~1973・理論社)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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細川嘉六 ほそかわ-かろく
1888-1962 昭和時代の社会評論家。
明治21年9月27日生まれ。大原社会問題研究所で植民地問題などを研究。昭和17年雑誌「改造」に発表した「世界史の動向と日本」で検挙され,これが横浜事件の発端となった。戦後,共産党に入党,22年参議院議員(当選2回)。26年GHQにより公職追放。昭和37年12月2日死去。74歳。富山県出身。東京帝大卒。著作に「植民史」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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細川 嘉六 (ほそかわ かろく)
生年月日:1888年9月27日
昭和時代の評論家;社会運動家。参議院議員(共産党)
1962年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の細川嘉六の言及
【大原社会問題研究所】より
…大原は初代所長[高野岩三郎]を信頼して,20年にわたって私財を投じつづけた。高野のもとに,櫛田民蔵,大内兵衛,森戸辰男,久留間鮫造,細川嘉六,笠信太郎らが所員となり,研究嘱託の長谷川如是閑ほか多くの研究者が参加し,日本の社会科学研究・社会調査に大きな貢献をした。アナーキズム文献では世界有数の〈エルツバッハ文庫〉や,年鑑編集のため社会運動団体の原資料などを収集したほか,講習会や研究生の育成も行った。…
【改造】より
…改造社は《女性改造》(1922‐24,46‐51),《文芸》(1933‐44)などの雑誌も発行したほか,単行本の出版もし,いわゆる[円本]時代の端緒をひらき,29年には《改造文庫》を発刊した。戦時期には《改造》42年8・9月号に掲載された情報局検閲済みの細川嘉六の論文〈世界史の動向と日本〉が陸軍報道部に摘発され,〈[横浜事件]〉の捏造(ねつぞう)につながった。以後改造社への軍部の圧力が強まり,編集部員が入れかえられ社会批判の姿勢をくずすが,44年6月同社は解散,6月号かぎり《改造》も休刊した。…
【横浜事件】より
…太平洋戦争下の特高警察による,研究者や編集者に対する言論・思想弾圧事件。1942年,総合雑誌《改造》8,9月号に細川嘉六論文〈世界史の動向と日本〉が掲載されたが,発行1ヵ月後,大本営報道部長谷萩少将が細川論文は共産主義の宣伝であると非難し,これをきっかけとして神奈川県特高警察は,9月14日に細川嘉六を出版法違反で検挙し,知識人に影響力をもつ改造社弾圧の口実をデッチ上げようとした。しかし,細川論文は厳重な情報局の事前検閲を通過していたぐらいだから,共産主義宣伝の証拠に決め手を欠いていた。…
※「細川嘉六」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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