アメリカ陸軍元帥。日本占領の連合軍総司令官。南北戦争の英雄アーサー(のち中将)の三男としてアーカンソー州リトルロックの兵営に生まれ、南部出身の母の強い影響下に育つ。ウェストポイント陸軍士官学校を最優秀で卒業、自分が創案した「虹(レインボー)」師団参謀長として第一次世界大戦に参加し13の叙勲。帰国後ウェストポイント校長(1919)、少将昇進(1925)、陸軍参謀総長(大将待遇)就任(1930)と、いずれも最年少記録をつくった。参謀総長のとき恩給の一括払いを要求する陸軍退役者の「ボーナス・マーチ」を弾圧(1932)。ハンサムで才気と強烈な自尊心に満ちた姿に、ルーズベルト大統領は独裁者の影をみたという。父子二代にわたりフィリピンとのつながりが深く、1935年、友人であるケソン初代連邦大統領の招きに応じ、フィリピン国民軍の創設にあたる。1941年(昭和16)12月日本軍の攻撃をバターン半島でしのぎ、大統領命令でオーストラリアに逃れた(1942年3月)のち、反攻作戦に成功(1944年10月)して「アイ・シャル・リターン」の公約を果たした。1944年12月元帥。
1945年(昭和20)8月30日厚木基地に進駐。降伏した日本の絶対的支配者(日本占領連合軍最高司令官)として総司令部(GHQ)から農地改革、婦人解放、労働改革など革命的な民主化を進め、とくに国民主権と平和主義の新憲法をもたらした意義は大きい。朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)(1950)とともに国連軍総司令官に任ぜられ、仁川(じんせん)奇襲上陸で状勢を逆転したが、トルーマン大統領の政策に公然と反対して中国との全面戦争を主張したため、1951年4月解任された。2000日に及ぶ在任の間、多くの日本国民の尊敬をかちえ、何十万通というファンレターが寄せられたのは占領の世界史に例がない。議会で「老兵は死なず」の演説のあと、1952年の大統領選に野心を燃やしたが、支持は集まらず、レミントンランド社会長として晩年を送った。
[袖井林二郎]
『津島一夫訳『マッカーサー回想記』(1964・朝日新聞社)』▽『袖井林二郎著『マッカーサーの二千日』(1974・中央公論社)』▽『津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録』上下(中公文庫)』
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アメリカの軍人。陸軍軍人の家庭に生まれた。1903年ウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業後,父の任地がフィリピン,日本であった関係から,最初の任地をフィリピンとしたのち,駐日アメリカ大使館武官の副官として来日するなど,極東の事情に詳しい経歴をもつ軍人としてアメリカ陸軍の要職を歴任した。30年には陸軍大将となり,またアメリカ史上最も若い陸軍参謀長となった。大不況下の32年には,恩給先払いを要求してワシントンに集まった第1次大戦の退役軍人を,フーバー大統領の要請に応じて軍隊を使って追い払い,不評を買った。37年に退役したが,41年に現役に復帰しアメリカ極東陸軍司令官として太平洋戦争に参加,フィリピンで敗れてコレヒドール島からオーストラリアに脱出し,〈I shall return〉とフィリピンに戻ることを誓った。44年元帥となり,日本の敗戦とともに連合国最高司令官として45年8月30日日本に進駐した。連合国最高司令官は行政官としての権限しかもっていなかったが,GHQ(連合国総司令部)の指令をとおして,日本の非軍事化,民主化などの対日占領政策を遂行し,彼は戦後日本の新しい権力者としてふるまった。朝鮮戦争の継続と拡大を主張したが,トルーマン大統領と対立して51年解任された。帰国後はレミントン・ランド社の社長に就任した。
執筆者:高橋 彦博
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1880~1964
アメリカの軍人。陸軍士官学校卒業。史上最年少の陸軍参謀総長,フィリピン政府軍事顧問を歴任。太平洋戦争が始まると,連合軍南西太平洋方面司令官につき,対日反攻の指揮をとった。戦後は連合国軍最高司令官として対日占領政策に絶大な権力をふるって,政治・経済・社会改革を進め,戦後日本の骨格を形成した。朝鮮戦争勃発後は国連軍最高司令官に就任,中国東北部の爆撃を主張して,戦争の限定化を図るトルーマン大統領を批判,1951年4月罷免された。
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1880.1.26~1964.4.5
アメリカの陸軍元帥。日本占領の連合国軍最高司令官。アーカンソー州生れ。1903年陸軍士官学校を首席で卒業,30年史上最年少の50歳で参謀総長に就任。35年フィリピン軍事顧問。41年現役復帰し,新設の米極東軍司令官として第2次大戦の対日戦を指揮。45年(昭和20)8月連合国軍最高司令官に就任,日本占領政策を遂行,「青い目の大君」の異名をとる。朝鮮戦争の作戦指導のあり方をめぐりトルーマン大統領と対立,51年4月解任された。
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…1945年9月2日,日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏することを正式に承認することを示すために調印された文書。調印は東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号上でなされ,日本側からは天皇および日本国政府を代表して重光葵(まもる)外相が,大本営を代表して梅津美治郎(よしじろう)参謀総長が調印し,連合国側からは最高司令官マッカーサーを筆頭にアメリカ,中華民国,イギリス,ソ連,オーストラリア,カナダ,フランス,オランダ,ニュージーランドの各代表が調印した。文書はポツダム宣言の受諾とその誠実な履行,日本軍の無条件降伏,日本軍・国民の敵対行為の停止,財産破壊の防止,連合国の俘虜および被抑留者の解放・保護・輸送などを規定し,かつ占領統治の基本方針として天皇および日本国政府職員がとくに命令のない限りその任務にとどまり,連合国最高司令官の布告・命令・指示に従って国家統治の任に当たるという間接統治方式を規定した。…
…正式には〈昭和23年7月22日付内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令〉といい,ポツダム政令の一つ。1948年7月22日,連合国軍最高司令官マッカーサーは芦田均首相に書簡を送り,公務員の争議行為禁止を示唆した。これを命令と受けとった芦田内閣は,7月31日に政令201号を公布し,とりあえず,すべての公務員の争議行為を禁止し,団体交渉権を厳しく制限した。…
…この占領期の政策全般を対日占領政策,ないし占領政策というが,ここでは政策にとどまらず,世相にいたるまでこの時代の諸相を概括する。 ポツダム宣言の第7項は〈右の如き新秩序が建設せられ且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るは連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし〉と連合国の占領を定めており,日本占領のための連合国軍最高司令官にはアメリカのマッカーサーが任命された。アメリカ軍の先遣部隊は1945年8月28日に厚木に到着し,9月2日正式に降伏文書が調印され,以後アメリカ軍は9月中に日本全土を占領した。…
…放送を含む電波行政の公正と政治的な中立を確保するための制度的方策として連合国最高司令官総司令部GHQの示唆で設置されたものである。設置法案の作成過程で当時の吉田内閣は委員会の政府からの独立性が強過ぎるとして修正を主張したが,結局マッカーサーの個人的書簡による要請の形をとって総司令部の意向を受け入れることで決着がついた。初代委員長に富安謙次が就任し,事務局は電波監理総局(長は電波監理長官)に置かれた。…
…こうして45年11月よりニュルンベルク裁判が開廷する。 日本敗戦後,連合国最高司令官(SCAP)のマッカーサーは,アメリカ本国の指令をうけて,対日占領政策の第一弾として,日本の戦犯容疑者の逮捕を行い,1945年9月11日の東条英機らの逮捕令を皮切りに,12月6日まで100名を超える日本の戦争指導者を逮捕・拘禁した。他方,日本の敗戦前後から連合国間では対日戦争犯罪処罰政策をめぐって活発な論議がなされたが,日本の場合もニュルンベルク裁判と同じく,〈通例の戦争犯罪〉に加え,〈平和に対する罪〉〈人道に対する罪〉という戦争犯罪概念を用い,国際軍事裁判方式をとることでは基本的に一致していた。…
※「マッカーサー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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