マッカーサー(読み)まっかーさー(英語表記)Douglas MacArthur

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マッカーサー」の意味・わかりやすい解説

マッカーサー
まっかーさー
Douglas MacArthur
(1880―1964)

アメリカ陸軍元帥。日本占領の連合軍総司令官。南北戦争の英雄アーサー(のち中将)の三男としてアーカンソー州リトルロックの兵営に生まれ、南部出身の母の強い影響下に育つ。ウェストポイント陸軍士官学校を最優秀で卒業、自分が創案した「虹(レインボー)」師団参謀長として第一次世界大戦に参加し13の叙勲。帰国後ウェストポイント校長(1919)、少将昇進(1925)、陸軍参謀総長(大将待遇)就任(1930)と、いずれも最年少記録をつくった。参謀総長のとき恩給の一括払いを要求する陸軍退役者の「ボーナス・マーチ」を弾圧(1932)。ハンサムで才気と強烈な自尊心に満ちた姿に、ルーズベルト大統領は独裁者の影をみたという。父子二代にわたりフィリピンとのつながりが深く、1935年、友人であるケソン初代連邦大統領の招きに応じ、フィリピン国民軍の創設にあたる。1941年(昭和16)12月日本軍の攻撃をバターン半島でしのぎ、大統領命令でオーストラリアに逃れた(1942年3月)のち、反攻作戦に成功(1944年10月)して「アイ・シャル・リターン」の公約を果たした。1944年12月元帥。

 1945年(昭和20)8月30日厚木基地に進駐。降伏した日本の絶対的支配者(日本占領連合軍最高司令官)として総司令部(GHQ)から農地改革、婦人解放、労働改革など革命的な民主化を進め、とくに国民主権と平和主義の新憲法をもたらした意義は大きい。朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)(1950)とともに国連軍総司令官に任ぜられ、仁川(じんせん)奇襲上陸で状勢を逆転したが、トルーマン大統領の政策に公然と反対して中国との全面戦争を主張したため、1951年4月解任された。2000日に及ぶ在任の間、多くの日本国民の尊敬をかちえ、何十万通というファンレターが寄せられたのは占領の世界史に例がない。議会で「老兵は死なず」の演説のあと、1952年の大統領選に野心を燃やしたが、支持は集まらず、レミントンランド社会長として晩年を送った。

[袖井林二郎]

『津島一夫訳『マッカーサー回想記』(1964・朝日新聞社)』『袖井林二郎著『マッカーサーの二千日』(1974・中央公論社)』『津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録』上下(中公文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マッカーサー」の意味・わかりやすい解説

マッカーサー
MacArthur, Douglas

[生]1880.1.26. アーカンソー,リトルロック
[没]1964.4.5. ワシントンD.C.
アメリカの軍人。陸軍軍人の家庭に生れる。 1903年ウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業し,フィリピンに配属された。 13年参謀本部員,第1次世界大戦にはヨーロッパに従軍し,帰国後 19年陸軍士官学校の校長。 30年陸軍参謀長,36年フィリピン共和国軍元帥,37年退役。対日関係の悪化に伴い 41年現役に復帰し,フィリピン駐留アメリカ極東軍司令官。 42年日本軍のフィリピン作戦展開によってオーストラリアに脱出。次いで南西太平洋軍最高司令官に任命され,対日作戦を指揮し,45年7月にはフィリピンの奪還に成功。第2次世界大戦後,連合国軍最高司令官として日本に進駐。以後 50年まで日本占領の最高権力者として多くの占領政策を施行した。 50年朝鮮戦争の勃発とともに国連軍最高司令官として作戦を指揮したが,戦略面で H.トルーマン大統領と意見が対立し,51年4月 11日解任された。この解任事件はアメリカの政・軍関係上大きな問題となり,しばしばシビリアン・コントロールの実例として言及された。帰国後引退。

マッカーサー
MacArthur, Arthur

[生]1845.6.2. マサチューセッツ,チコピーフォールズ
[没]1912.9.5. ミルウォーキー
アメリカの陸軍軍人,フィリピン軍政長官。 D.マッカーサーの父。南北戦争で志願兵として戦い,1863年のミショナリーリッジの戦いで名誉勲章を受章。数々の戦功によりわずか 20歳で連隊長に昇進。南北戦争後,インディアンとの戦闘に従軍。 98年アメリカ=スペイン戦争の勃発に際し,准将に任命され,フィリピン司令部付きとなった。戦功により少将に昇進,1900年にはフィリピン第8軍団司令官および軍政長官に任命された。在任中はフィリピンの独立を援助。スペイン法の改正などに尽力。日露戦争中は日本軍のオブザーバーとして特派された。 06年中将,09年退役。

マッカーサー
Macarthur, John

[生]1767.9.3. デボンシャー,ストークダメレル
[没]1834.4.11. ニューサウスウェールズ,カムデン
オーストラリアの牧羊の創始者。 1789年イギリスからオーストラリアに渡り,本国からメリノ種の羊を輸入して飼育に成功,1825年イギリスの羊毛輸入税撤廃により事業は飛躍的に発展した。彼の成功により入植者,牧羊業者も急増し,同国における今日の羊毛産業の隆盛をみた。

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