細川庄(読み)ほそかわのしよう

日本歴史地名大系 「細川庄」の解説

細川庄
ほそかわのしよう

大堰おおい川の支流細野ほその川・余野よの川・田尻谷たじりだに川の流域に開けた主殿寮領の荘園。史料上は単に「細川」、または東接する同じく主殿寮領小野山おのやま(単に小野ともいう。現京都市北区)と一括して「小野細川」と出る場合が多い。範域は近世村落の余野・たき・田尻・細川上ほそかわかみ・細川中・細川下・長野ながのの七ヵ村にあたる。

荘名は建長二年(一二五〇)二月二〇日付の前石見守友景奉書(神護寺文書)に、

<資料は省略されています>

とみえるのが早い。この吉富よしとみ庄との相論についてはほかに九通の関連文書(いずれも神護寺文書)があり、細川庄はこの時、境界と通路の件で吉富庄と争い、細川側は街道を封鎖して往来を妨害するなどしている。六波羅探題北条長時の命により院庁から実検使が下向調査し、結果はよくわからないがこの時点ではいちおう解決したようである。

文永五年(一二六八)一二月、小野・細川と吉富庄との紛争が再び起こった。同月付の小野細川御作手重訴状(同文書)

<資料は省略されています>

とある。吉富庄民が細川・小野の領域へ越境して松などを伐採、ついには耕作するまでに至り、また細川・小野作手の炭窯を破壊、刃傷に及んだことに端を発した境相論であった。これによれば細川・小野はもと主殿寮領であったが、寛治年中(一〇八七―九四)仙洞御所の節器を調進する仕所の「御続松料採所」に割かれ、仙洞料になっていたという。なお久安五年(一一四九)一一月一五日付蔵人所下文案(壬生家文書)によれば主殿寮が主殿少允伴正方を小野山の「供仕所年預」に補任し、住民らの取締を命じているから、仙洞料になっても領有権は主殿寮にあったと考えられる。

また右文書の細川・小野側の主張から細川・小野の西方に神吉かみよし氷室(現船井郡八木町)があり、細川・小野および神吉に北接して吉富庄があったこと、細川・小野の領域は愛宕あたご(南方山城国との境)にまで及んでいたこと、細川・小野の北、吉富庄の東に細川勅旨田があったこと、この勅旨田はかつて細川庄の地にあったものを立て替えたものであることなどがわかる。

細川庄
ほそかわのしよう

美嚢みの川とその支流小川おがわ川流域に展開する中世の庄園で、現細川町一帯に比定される。本家は八条院(鳥羽天皇・美福門院の娘)が建立した蓮華心れんげしん(現京都市右京区)。領家職は藤原俊成がもち、建暦二年(一二一二)俊成から領家職を継承した娘九条尼(建春門院中納言)は卿二位(藤原兼子)に譲与の意思を示したが、辞退されたので弟の定家に譲ることになった(「明月記」同年八月八日条)。また定家は和歌を指導した源実朝から地頭職拝領し、領家職と併せての一円所領となったという(正和二年七月二〇日「関東下知状」天理大学附属天理図書館蔵)。翌建暦三年には検非違使後藤基清が無断で庄内に入り神人殺害の犯人を捕縛し、また前下司の譲りを得たと称して田地を押領したとして、不入権の侵害と刈田狼藉の咎で訴えられた。基清は前者は職務を遂行しただけであり、後者は譲りを得て耕作していた下司分の田の稲を刈取ったまでであると陳弁した。領家方の訴えを受けた後鳥羽上皇は、基清が院の西面の武士であることもあって和解の仲介をし、九条尼は今後当庄を御領として扱うことを条件に和解に同意している(「明月記」建保元年八月二九日条)。承久三年(一二二一)九月二八日、民部卿定家は細川庄預所職に補任されている(「後高倉院庁下文」勧修寺家文書)。嘉禄二年(一二二六)役夫工米と蓮華心院修理の費用を賦課されたのをはじめとして(「明月記」同年五月一八日条)、その後度々諸役が賦課されている。

細川庄
ほそかわのしよう

現池田市の北部、久安寺きゆうあんじ(余野川)流域にあった庄園。近世のほそ郷六ヵ村の地に比定される。「後鳥羽院熊野御幸記」建仁元年(一二〇一)一〇月二五日条に「此宿細川庄成時沙汰也」とみえ、この時、熊野御幸に際しての雑事である長柄ながら宿(現大淀区)の沙汰を当庄庄官成時が行っている。ところで当庄は、建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)に、後堀河天皇の中宮鷹司院藤原長子知行の一処として「知足院殿新立庄内 摂津国細河庄」とみえ、知足院すなわち藤原忠実のとき立庄されたことが知られる。鷹司院へは、同目録によると寛元二年(一二四四)に近衛家実から譲られている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報