日本歴史地名大系 「多田神社」の解説
多田神社
ただじんじや
〔多田院の創建〕
多田院は多田院鷹尾山法華三昧堂と称したといわれるが、中世の史料では確認できない。本尊は丈六釈迦如来。天禄元年(九七〇)源満仲は嫡男頼光・次男頼親・四男頼信らとともに七堂伽藍を建立して多田院とし、比叡山の慈恵(良源)を導師として堂塔供養を行った(歴代編年集成)。満仲は寛和二年(九八六)多田で出家、長徳三年(九九七)八六歳で死去し、多田院に廟所が営まれた。平安時代末源平の戦の後、源頼朝は多田蔵人行綱を勘当し、源氏一族の大内惟義に多田院を預けたが、行綱の家人は元のごとくとした(元暦二年六月八日「大江広元奉書案」多田神社文書、以下断りのない限り同文書)。大内氏もまた承久の乱で京方についたため失脚し、北条泰時は、摂津国多田院は君(源頼朝)の先祖の御領で古来守護不入の地であるとし(安貞二年九月一四日北条泰時書状案)、初め泰時が管理し、ついで北条氏得宗領となった。
文永九年(一二七二)頃恒念が勧進聖となって堂舎の修造に着手(同年九月五日得宗公文所奉行人連署奉書)、翌一〇年には得宗は多田院造営条々一三条を定め(同年四月二四日得宗公文所連署下知状)、建治元年(一二七五)得宗の信頼あつい鎌倉極楽寺の長老忍性が多田院の別当職ならびに勧進職に起用された(同年一〇月一五日得宗公文所奉行人連署奉書)。それとともに多田院は従来の天台系から律宗奈良西大寺末となり、弘安四年(一二八一)本堂を中心に方一〇町が殺生禁断と定められ(同年四月一八日得宗禁制案など)、また永仁六年(一二九八)定められた西大寺以下三四ヵ寺からなる関東祈願所の「専随一」と称されている(元応元年七月二五日工藤貞祐書下など)。
多田神社
ただじんじや
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報