日本大百科全書(ニッポニカ) 「結城朝光」の意味・わかりやすい解説
結城朝光
ゆうきともみつ
(1168―1254)
鎌倉時代初期の武将。小山政光(おやままさみつ)の子。左衛門尉(さえもんのじょう)、上野介(こうずけのすけ)、従(じゅ)五位下。1180年(治承4)源頼朝(よりとも)の猶子(ゆうし)として元服。83年(寿永2)志田義広(しだよしひろ)の乱の功で下総(しもうさ)結城郡(茨城県結城市)を与えられ結城氏を称した。89年(文治5)奥州藤原氏討伐に功をたて陸奥白河庄(むつしらかわしょう)を得、95年(建久6)東大寺再建供養のとき、衆徒の騒動を鎮め名声をあげた。99年(正治1)三浦義村(よしむら)らと梶原景時(かじわらかげとき)を弾劾、また和田義盛(よしもり)の乱(1213)、承久(じょうきゅう)の乱(1221)でも功をたて、1235年(嘉禎1)には評定衆(ひょうじょうしゅう)に列せられた。建長(けんちょう)6年2月24日、87歳で没。法名は日阿。
[市村高男]
『『結城市史 第一、第4巻』(1977、80・結城市)』