東京都区部の北西端にある区。1947年(昭和22)板橋区から練馬、上練馬、石神井(しゃくじい)、大泉、中新井の旧5町村と上板橋村の一部が分離して一区を形成した。山手台地(やまのてだいち)にあり、富士見池、三宝寺(さんぽうじ)池、石神井池の湧水(ゆうすい)をあわせて流れる石神井川と白子(しらこ)川が台地を刻んでいる。練馬の地名は馬の放牧地と関係し、また古代の乗瀦(のりぬま)駅の名が訛(なま)ったともいわれる。鎌倉時代末期から豊島氏(としまうじ)がこのあたり一帯を支配し、石神井城(現、石神井公園)や練馬城を築いた。区の西端の関町は、豊島氏が京から奥州へ通ずる街道の要地に関所を構えた所という。江戸時代に千川用水(せんかわようすい)を玉川用水から分離してこの地に引いて以来、農業も盛んとなり、練馬ダイコンなど近郊の野菜供給地として知られた。
1914年(大正3)東上鉄道(現、東武鉄道東上線)、翌1915年武蔵野鉄道(現、西武鉄道池袋線)が開通、関東大震災と第二次世界大戦を機として都市化が急速に進展、新興の住宅地域として発展を遂げた。農地の宅地への転用が著しいが、23区中、農耕地率はもっとも高く、かつての練馬ダイコンにかわってキャベツ生産が多い。卸し・小売・飲食などの商業とサービス業が主産業であるが、繊維製品と出版・印刷の製造業もみられる。
練馬白山神社の大ケヤキは源義家(よしいえ)の植樹といわれ、三宝寺池沼沢植物群落とともに国指定の天然記念物である。としまえんは1926年に一部開園した遊園地(当時の名称は豊島園)で、その後西武鉄道(旧、武蔵野鉄道)が整備を進めた。とくにプールが有名であったが、2020年(令和2)8月に閉園した。学園町として開発された大泉学園町の南方、西武池袋線大泉学園駅近くに植物学者牧野富太郎(とみたろう)の記念庭園がある。石神井公園駅の北方から関越自動車道が走り、東京外環自動車道とも結ばれている。区の東北端を国道254号(川越街道)が通り、その西側を東京地下鉄有楽町線・副都心線、さらにその西側を都営地下鉄大江戸線が通じる。面積48.08平方キロメートル、人口75万2608(2020)。
[沢田 清]
『『練馬区史』(1957・練馬区)』▽『『練馬区二十年の歩み』(1969・練馬区)』▽『『練馬区の遺跡』全2巻(1983、1997・練馬区教育委員会)』▽『『ねりま50年の移り変わり』(1997・練馬区)』
東京都区部の北西部の地名。平安時代以降,豊島(としま)氏の勢力下に入り,練馬城(現,豊島園)と石神井(しやくじい)城(現,石神井公園)が築かれた。明治以後は大部分が東京府北豊島郡に属し,1947年東京都板橋区から分離して練馬区が成立。武蔵野台地上に位置し,第2次大戦前は麦類や野菜類を産する畑地がほとんどで,とくに良質の練馬ダイコンの産地として知られた。戦時中から都市化が進んで人口が急増し,現在では区部人口71万6124(2010)を数える。区域中央部を東西に走る西武池袋線が主要な鉄道輸送機関であるが,関越自動車道の起点の練馬インターチェンジ,東京外環自動車道との分岐点の大泉ジャンクションもある。全体としては住宅地が多いが,工場地や農地も散在する。区域中央北部の光が丘は,戦後の米軍将校宿舎グラント・ハイツ跡地で,73年の返還後,住宅・都市整備公団による大規模な住宅団地が建設されて都営地下鉄の駅もでき,団地の北側は運動施設などのある光が丘公園(約60万m2)となっている。
執筆者:正井 泰夫
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…東京都区部の北西部の地名。平安時代以降,豊島(としま)氏の勢力下に入り,練馬城(現,豊島園)と石神井(しやくじい)城(現,石神井公園)が築かれた。明治以後は大部分が東京府北豊島郡に属し,1947年東京都板橋区から分離して練馬区が成立。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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