日本大百科全書(ニッポニカ)「縁側」の解説
縁側
えんがわ
日本住宅の建物周囲に巡らした板敷きの通路部分、あるいは庭からの昇降のための板敷き部分。建物内に設けられたものを入側(いりかわ)あるいは入側縁といい、近年は縁側とよんでいる。そのうちで畳敷きのものを縁座敷とよぶこともある。また、建物外周に設けられたものは縁、濡(ぬ)れ縁といい、通常床(ゆか)が内部より一段下がっているので落ち縁ともいう。これらの分類のほかに板の張り方によって、短辺方向に幅30センチメートルほどの広い板を張った木口(こぐち)縁、長手方向に幅10センチメートルほどの長い板を張った榑縁(くれえん)、板の間を透かせて張り、水はけをよくした簀子(すのこ)縁などの区別がある。
歴史的にみると、縁は建物の床が板敷きになってから発生した。外周についた縁の例は奈良時代の住宅の遺構である法隆寺東院伝法堂の場合がもっとも早く、伊勢(いせ)神宮本殿や大嘗宮(だいじょうきゅう)正殿にその形式が伝えられている。建物内に設けられるようになるのは中世からである。典型的な例は園城寺(おんじょうじ)勧学院客殿、二条城二の丸御殿遠侍(とおさぶらい)、大広間、黒書院、桂(かつら)離宮の古書院、中書院、新御殿などにみられる。これらのうち勧学院客殿、二条城の諸御殿には外周の縁もつけられている。勧学院客殿と桂離宮古書院では、入側縁の外側は柱が立っているだけで建具はない。二条城の遠侍や大広間の背面では外側の柱間に舞良戸(まいらど)と障子を立て、縁側を建物内部に取り込んでいる。桂離宮の中書院では、初め外側に建具はなかったが、のちに柱間に障子が入れられ、柱の外側に引通しの雨戸がつけられた。二条城の大広間、黒書院の表側は、初め柱の外側に引通しの障子と雨戸が用いられていたが、現在は桂離宮の中書院と同様の形式である。また、これらのうちでもっとも後につくられた桂離宮新御殿では最初から柱間に障子を立て、柱の外側に雨戸を引き通す形式である。以上のように、17世紀前半に吹き放しの入側縁から内部に取り込まれた縁側に変化している。さらに明治期以後に柱間に立てられた障子がガラス障子に変わった。
明治期以後の縁側は、構造からみると主屋に付加されていて、屋根も一段下げてさしかけ、天井を張らずに屋根裏をみせるのが常である。第二次世界大戦後は住宅の面積に余裕がなく、縁側のない家が多い。
[平井 聖]