美濃国分寺跡(読み)みのこくぶんじあと

日本歴史地名大系 「美濃国分寺跡」の解説

美濃国分寺跡
みのこくぶんじあと

[現在地名]大垣市青野町 八反田

国分寺山の平坦地に位置する。国指定史跡(瓦窯跡を含む)。同山南東麓に現在、高野山真言宗国分寺があり、寺跡の西方約三キロに美濃国府跡(現不破郡垂井町)がある。天平一三年(七四一)の国分寺建立の詔によって、天平宝字年間(七五七―七六五)までに創建されたと考えられる。「続日本紀」天平神護二年(七六六)九月五日条に「国分二寺」とみえ、伊勢・美濃などの官舎の風損の際、国司らの修理怠慢を戒め、朝集使によって官舎修理数を奏聞させる場合、国分寺・国分尼寺もこれに準じるよう命じている。神護景雲四年(七七〇)方県かたがた郡少領の外従六位下国造雄萬は当寺に私稲二万束を献じ、外従五位下を授けられた(「続日本紀」宝亀元年四月一日条)。宝亀六年(七七五)には異常風雨(台風か)によって伊勢・尾張・美濃三国で国分寺と諸寺の塔一九が倒壊し、同時に百姓三〇〇余、牛馬一千余が漂没している(同書同年八月二二日条)。仁和三年(八八七)当寺は火災にあい、その機能は一時「席田郡定額尼寺」に移されたという(「三代実録」同年六月五日条)

「延喜式」主税上によると、美濃国正税のうち国分寺料は四万束で、当寺は一〇世紀頃には再建されていたらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「美濃国分寺跡」の解説

みのこくぶんじあと【美濃国分寺跡】


岐阜県大垣市青野町にある寺院跡。現在の美濃国分寺の南側に位置し、聖武天皇の詔勅によって全国に建立された国分寺の一つで、東西約230m、南北約205mの寺域をもち、寺域全体が整備・保存されている貴重な史跡である。1968年(昭和43)からの発掘調査により、金堂が塔の西側に配置される法起寺(ほっきじ)式の伽藍(がらん)配置であることがわかり、中心伽藍を取りまく回廊の西方に僧坊の一部らしい建物跡も発見されている。国分寺としては珍しいこのような伽藍配置は、出土した瓦や講堂基壇下から発見された柱根から、前身の寺の配置を踏襲したと想定されている。奈良時代の国分寺の伽藍の様子がほぼすべてわかるのは全国でも数少なく、指定範囲を寺域全体に拡大し、あわせて寺跡東北方の丘陵上にある国分寺造営の際に瓦を供給したと考えられる瓦窯跡も含めて、1921年(大正10)に国の史跡に指定された。旧美濃国分寺跡地はほぼ当時の伽藍の大きさで整備され、史跡公園となっており、近くの大垣市歴史民俗資料館には発掘された古銭(和同開珎(わどうかいちん))など旧美濃国分寺の発掘品が展示されている。JR東海道本線ほか大垣駅から名阪近鉄バス「稲葉団地」下車徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の美濃国分寺跡の言及

【大垣[市]】より

…北西部の赤坂は中山道の宿駅で,明治以降金生(きんしよう)山の豊富な石灰岩を利用して石灰工業,大理石工業が発達している。西部の青野町には美濃国分寺跡(史)があり,本尊であった薬師如来像は重要文化財に指定されている。【高橋 百之】
[大垣城下]
 美濃国安八郡の城下町。…

※「美濃国分寺跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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