青野村(読み)あおのむら

日本歴史地名大系 「青野村」の解説

青野村
あおのむら

[現在地名]山形市青野・とうまえ近田ちかだ

植野うえの村の北に位置し、大岡おおおか山南麓丘陵および不動ふどう沢と野呂のろ川が形成した堆積平地に立地。高瀬たかせ川と立谷たちや川の複合扇状地馬見まみさき川扇状地の縫合部にあたる。青野古墳・お花山はなやま古墳群、さぎもりの古代祭祀遺跡がある。

最上氏改易後は山形藩領、延享元年(一七四四)幕府領、文化一〇年(一八一三)再び山形藩領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高六八六石余。

青野村
あおのむら

[現在地名]綾部市青野町

本郷綾部村(町分)の東北の由良川河畔にあり、集落は南の微高地に集中し、耕地は由良川の旧河道および自然堤防上に広がる。「丹波負笈録」では「古綾部郷親村古所也」という。綾部郷一二ヵ村の一。

寛文修正検地では高五八七石余、天保年間(一八三〇―四四)の家数は六〇(「田畑反別石高其他」沼田家文書)

綾部井堰は当村の東で由良川から取水している。天田井堰と合併する以前の綾部井堰の井組は青野村・綾部村(町分)井倉いのくら村・おか村・のぶ村・大島おおしま村から組織されていた。

青野村
あおのむら

[現在地名]大垣市青野町・稲葉西いなばにし稲葉北いなばきた

国分寺こくぶんじ山の南に位置し、東は青墓あおはか村・榎戸よのきど村。美濃国分寺跡があり、村内を東西に中山道が通る。関ヶ原の合戦後の慶長六年(一六〇一)伊勢長島城(現三重県桑名郡長島町)城主菅沼定仍に当村などが与えられたが(「大垣市史」青墓篇)慶長郷帳には西尾忠永領とあり、村高五三五石。同一四年より美濃国検地を実施した美濃の総奉行大久保石見守長安の屋敷が当村にあった(年欠「美濃国検地入次第覚書」小林文書)

青野村
あおのむら

[現在地名]井原市青野町

稗原ひえはら村の東にある。高原に位置し、東は山野上やまのうえ村。慶長一一年(一六〇六)の徳川家康朱印状(高山公実録)に村名がみえ、後月しつき郡に属し、高四〇九石余、伊予の藤堂高虎に加賜されている。寛永備中国絵図では山崎家治先知とあり、高四〇九石。正保郷帳では西青野村とあり、幕府領、枝村に中尾なかお村・新山村が載る。中尾は県道黒忠くろただ―井原線に沿う北東部に字名として残り、新山は現在の仁井山にいやまと思われる。元禄郷帳でも西青野村とみえ、西江原藩領、枝村には中尾村のみがあげられる。延宝五年(一六七七)の西青野村検地帳(後月郡誌)には古検有畝三六町八反余とあり、田方三七町余・分米三三六石余、畑方三四町五反余・分米一一九石余、屋敷一町二反余・分米一二石余で、茶二五九株・楮一二〇株。

青野村
あおのむら

[現在地名]玉名市青野

東境を山坂やまさか川が北へ、村央を合田下ごうだのした川が西へ流れる台地上にあり、東は中坂門田なかさかもんた村・南坂門田みなみさかもんた村、西は横田よこた村・宮原みやばる村、北は伊倉北方いくらきたがた村のうち東北帳ひがしきたちよう村、南は野辺田のべた(現玉名郡天水町)に接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に「伊倉之内青野村」とみえ、田二五町四畝余・畠六一町五反四畝余・屋敷四六筆三町一反二畝、分米六九〇石三斗余、下ケ名にはかのまえ・うえめん光神こうじんひら・あかはけなどがみえる。小田手永に属した。元禄国絵図には「伊倉南方村之内青野村」、「国誌」には「南方村ノ内」とみえる。

青野村
おおのむら

[現在地名]沼津市青野

愛鷹あしたか山の南麓、高橋たかはし川の中流右岸に位置する。東は柳沢やなぎさわ村、西は根古屋ねごや村。根方ねがた街道が村内を東西に通り、街道に沿って集落が形成されている。中世には阿野あの庄域に含まれた。元亀三年(一五七二)五月一四日の武田家朱印状(桃沢神社文書)に「阿野庄之内赤野山・青野郷浅間并足高(愛鷹)明神別当職」とあり、奥津(興津)藤左衛門尉がこれらを安堵され、「神前之諸役」を勤めることとされている。赤野あけの山は高橋川上流の愛鷹山中腹突端部にある赤野観音堂(柳沢地内)、愛鷹明神は現在の桃沢ももさわ神社のこと。

青野村
あおのむら

[現在地名]佐和田町青野

荒町あらまち川と山田やまだ川に挟まれた丘陵上に展開する。東は二宮にくう村、南は窪田くぼた村、西は東五十里ひがしいかり村、北は山田やまだ村。天正一七年(一五八九)以降、慶長期(一五九六―一六一五)にかけて佐渡の治府が河原田かわはらだに置かれたときには、河原田から相川あいかわへの道は青野峠を越えた。元禄七年(一六九四)の検地帳(青野区有)によると、田四八町・畑一一町四反余。同八年の当村・窪田・中原なかはら三ヵ村の田地用水取決(同区有)によると、三ヵ村の反別をもって分水が定められ、当村は昼八ツ時から朝六ツ時まで、窪田村へは朝六ツ時から昼八ツ時までとし、中原村は日替りとされている。

青野村
あおのむら

[現在地名]朝日町青野

丹生山地中央を流れる天王てんのう川が平坦部に出ようとする常磐ときわ谷中央にある。永禄五年(一五六二)一二月一四日付景連外三奉行沙汰状(劔神社文書)に「粟生野村」と記され、つるぎ大明神(現織田町)の社領があった。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「織田庄平村」に含まれたと考えられる。正保郷帳に村名がみえ、田方九五石余・畠方八三石余。福井藩領で、慶応三年(一八六七)五月の越前国丹生郡中領之内青野村宗旨御改帳(渡辺家文書)によれば家数一九(うち高持八・雑家六)、人数男三六・女四八。

青野の南山麓にある法華宗真門流妙祐みようゆう寺はもと平等会びようどうえ(現鯖江市)の末寺であった。

青野村
あおのむら

[現在地名]英田町青野

福本ふくもと村の北、吉野よしの川右岸に立地する。倉敷往来が通り、北は鳥淵とりぶち村。正保郷帳に村名がみえ、田一八石・畑一二三石。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高四〇石余・開高一九石余、村位は上。津山藩森氏断絶後は幕府領、のち播磨三日月藩預、寛政六年(一七九四)幕府領となるが同年のうちに播磨龍野藩預、明治元年(一八六八)鶴田藩領(「美作国郷村支配記」など)。「東作誌」では毛付高一五九石余、家数七一、男一八四・女一三九、溜池三、井堰一、山林一〇町三反余。

青野村
あおのむら

[現在地名]南伊豆町青野

市野瀬いちのせ村の東、青野川上流域に位置する。粟生野とも記す。天正一〇年(一五八二)閏一二月(京都では天正一一年一月にあたる)二〇日清水康英は同又兵衛に、「粟生野」の九貫文分の替えを渡すことを約束している(「清水康英判物」清水文書)。江戸時代の初めは幕府領、文化八年(一八一一)幕府領と旗本稲葉領の相給となり幕末に至る(韮山町史)。寛永二年(一六二五)青野村高三六〇石余が下田御番今村彦兵衛に与えられている(記録御用所本古文書)

青野村
あおのむら

[現在地名]上越市青野

上吉野かみよしの村・梅田うめだ新田の東から南東にかけて、保倉ほくら川左岸に位置する広域の村。上・中・下の三地区に分れ、上青野に青野池がある。応永一八年(一四一一)八月一九日の居多神社社領注文(居多神社文書)にみえる夷守ひなもり郷内の青野は当地であろう。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「楠川左京亮分青野村 上」とみえ、本納一〇〇石六斗五升・縄高二九一石四升四合・家一七軒・五〇人。同絵図には青野村から上吉野村にかけての保倉川沿いに門前村・三わ村が描かれているが、のち両村とも当村に含まれた。

青野村
あおのむら

[現在地名]奈良市青野町・若葉台わかばだい一―四丁目付近

西大寺村南に所在。西大寺田園目録に「添下郡右京二条四坊三坪一段字阿宇野」とあるのは当村に該当。

慶長郷帳の村高一九一・七七石。近世を通じて旗本石河氏(貞政系)領。享保六年(一七二一)の和州添下郡菅原村宝来村青野村明細帳(天理図書館文書)によれば、文禄四年(一五九五)検地奉行は井上新介。上田六町八反三畝一一歩、中田三町七反七畝二五歩、下田二反七畝二四歩、上畑五反七畝八歩、中畑八反六畝一〇歩、下畑二反八畝二〇歩、下田古荒一畝一五歩、中畑古荒七畝、下畑古荒二反四畝二九歩、居屋敷二反二畝二二歩、上田新荒二反一畝、中田新荒一反四畝四歩。

青野村
あおのむら

[現在地名]加西市青野町

下野上しものがみ村・都染つそめ村の東に位置し、中播丘陵の北東端、普光寺ふこうじ川中流左岸の洪積台地に立地する。北東は鍛冶屋かじや村。青野原は加東かとう・加西両郡二一ヵ村の入会秣場であったが、江戸時代初期から中期にかけて開拓が進められ、当地は鍛冶屋村の者が中心となって開拓された。貞享二年(一六八五)の検地帳(青野町有文書)には「鍛冶屋村之青野分」とあるが、同年の年貢免状(同文書)には「青野村」とみえ、初めは赤穂藩領であった。

青野村
あおのむら

[現在地名]東粟倉村青野

中谷なかだに村の南西、後山うしろやま川沿いに立地。正保郷帳に村名がみえ、田一〇九石余・畑五六石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高六六石余・開高七石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は中谷村と同様とみられる。「東作誌」によれば高二四〇石余のうち三七石余が「地不足」とあり、戸数四四、男一二一・女八〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報