安土桃山時代の僧。醍醐寺座主,三宝院門跡。東寺長者を兼ねる。関白左大臣二条晴良の子,母は伏見宮二品貞敦親王の女。幼にして将軍足利義昭の猶子となった。7歳のとき荘厳院義尭(九条政基の子)の付弟となり,義尭示寂後,理性院尭助の室に入り,14歳のとき報恩院雅厳について得度,1576年(天正4)醍醐寺座主,85年准三宮宣下をうけた。宣下の前日,実兄の二条昭実が関白を辞し,かわりに豊臣秀吉が関白になった。それは貴族社会に大きな衝撃を与えたが裏には義演の准三宮と秀吉の関白との政治的な取引があったと考えられている。義演と秀吉との間柄は特別に親密で,秀吉が死ぬ1598年(慶長3)の醍醐の花見をはじめ,それを示す事例にはこと欠かない。義演が醍醐寺の復興に大きな業績を残し醍醐寺中興と呼ばれるのも秀吉の外護にあずかるところがはなはだ多い。義演はまた精力的に醍醐寺の聖教(聖人の教え)・文書等を研究,整理,書写し,筆まめにみずからの行動を記録した。《醍醐寺新要録》は義演の著したすぐれた寺誌であり《義演准后日記》《後七日御修法記》などはみずからの行動を記録したものである。
執筆者:弥永 貞三
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安土(あづち)桃山、江戸初期の真言宗の僧。醍醐寺(だいごじ)中興の祖と仰がれる80代座主(ざす)。関白二条晴良の子で、14歳で出家し、1575年(天正3)金剛輪院を再興、翌1576年大伝法院(だいでんぽういん)座主となり、ついで醍醐寺座主、1579年には大僧正、1585年准三宮(じゅさんぐう)(准后(じゅごう))、1594年(文禄3)東寺長者を兼任した。豊臣秀吉(とよとみひでよし)・秀頼(ひでより)の帰依(きえ)を受け、荒廃した醍醐寺を復興し、また後七日御修法(ごしちにちみしゅほう)なども復興した。寺史の編纂(へんさん)にも力を尽くし、20年を費やして『醍醐寺新要録』22巻を完成した。ほかにも、『義演准后日記』62巻、『五八代記』3巻、『後七日御修法再興記』1巻の著がある。
[石川力山 2017年6月20日]
(西口順子)
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…翌年から恒例として宮中御斎会と並んで行われるようになり,東寺一の長者が導師を勤めた。のちたびたび中絶したが,1623年(元和9)醍醐寺座主義演が紫宸殿において復興した。明治維新により1871年(明治4)に廃止されたが,83年東寺灌頂院で再興。…
…その後応仁の乱で醍醐寺は荒廃し,三宝院も焼失した。安土桃山時代に出た義演は,醍醐寺の金剛輪院を復興し,義演に帰依した豊臣秀吉は,たびたび醍醐寺に赴いたが,1598年(慶長3)にはそこで盛大な観桜の宴を催した。その際数々の殿舎が改修整備されたので,義演は金剛輪院の名を由緒ある三宝院に改め,第32世の三宝院主となった。…
…全22巻。編者は醍醐寺第80代座主義演(ぎえん)。濫觴(らんしよう)部,伽藍(がらん)部など14部に大別され,さらに各部は篇・類・段に細分される。…
※「義演」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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