義演(読み)ぎえん

精選版 日本国語大辞典 「義演」の意味・読み・例文・類語

ぎえん【義演】

安土桃山・江戸初期の真言宗の僧。醍醐寺中興の祖。二条晴良の子。醍醐寺第八〇代座主大僧正となり、准三后の宣下を受ける。豊臣秀吉帰依を受け、三宝院光台院復興。著「醍醐寺新要録」など。永祿元~寛永三年(一五五八‐一六二六

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改訂新版 世界大百科事典 「義演」の意味・わかりやすい解説

義演 (ぎえん)
生没年:1558-1626(永禄1-寛永3)

安土桃山時代の僧。醍醐寺座主,三宝院門跡。東寺長者を兼ねる。関白左大臣二条晴良の子,母は伏見宮二品貞敦親王の女。幼にして将軍足利義昭猶子となった。7歳のとき荘厳院義尭(九条政基の子)の付弟となり,義尭示寂後,理性院尭助の室に入り,14歳のとき報恩院雅厳について得度,1576年(天正4)醍醐寺座主,85年准三宮宣下をうけた。宣下の前日,実兄の二条昭実が関白を辞し,かわりに豊臣秀吉が関白になった。それは貴族社会に大きな衝撃を与えたが裏には義演の准三宮と秀吉の関白との政治的な取引があったと考えられている。義演と秀吉との間柄は特別に親密で,秀吉が死ぬ1598年(慶長3)の醍醐の花見をはじめ,それを示す事例にはこと欠かない。義演が醍醐寺の復興に大きな業績を残し醍醐寺中興と呼ばれるのも秀吉の外護にあずかるところがはなはだ多い。義演はまた精力的に醍醐寺の聖教聖人の教え)・文書等を研究,整理,書写し,筆まめにみずからの行動を記録した。《醍醐寺新要録》は義演の著したすぐれた寺誌であり《義演准后日記》《後七日御修法記》などはみずからの行動を記録したものである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「義演」の意味・わかりやすい解説

義演
ぎえん
(1558―1626)

安土(あづち)桃山、江戸初期の真言宗の僧。醍醐寺(だいごじ)中興の祖と仰がれる80代座主(ざす)。関白二条晴良の子で、14歳で出家し、1575年(天正3)金剛輪院を再興、翌1576年大伝法院(だいでんぽういん)座主となり、ついで醍醐寺座主、1579年には大僧正、1585年准三宮(じゅさんぐう)(准后(じゅごう))、1594年(文禄3)東寺長者を兼任した。豊臣秀吉(とよとみひでよし)・秀頼(ひでより)の帰依(きえ)を受け、荒廃した醍醐寺を復興し、また後七日御修法(ごしちにちみしゅほう)なども復興した。寺史の編纂(へんさん)にも力を尽くし、20年を費やして『醍醐寺新要録』22巻を完成した。ほかにも、『義演准后日記』62巻、『五八代記』3巻、『後七日御修法再興記』1巻の著がある。

[石川力山 2017年6月20日]

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朝日日本歴史人物事典 「義演」の解説

義演

没年:寛永3.閏4.21(1626.6.15)
生年:永禄1.8.20(1558.10.1)
安土桃山・江戸初期の真言宗の僧,根来寺・醍醐寺座主,東寺長者,法務。室町幕府将軍足利義昭の猶子,父は関白二条晴良,母は伏見宮貞敦親王の娘位子。永禄12(1569)年醍醐寺に入り,深応,雅厳に師事。天正7(1579)年大僧正,同13年准三后となる。同19年豊臣秀吉建立の方広寺大仏殿地鎮のため不動護摩を修し,文禄1(1592)年朝鮮出兵の成功を祈って東寺で仁王経大法を修し,慶長3(1598)年方広寺大仏開眼供養に呪願師を勤めた。秀吉没後は東寺の後七日御修法を再興するなど,真言宗の興隆に力を尽くした。著作に『醍醐寺新要録』『義演准后日記』があり,当該期の政治・宗教史料として重要である。秀吉の援助を受けて荒廃していた醍醐寺を復興させ,聖教・記録を整理,保管し,後世に伝えた功績は大きい。<参考文献>中島俊司『醍醐寺略史』

(西口順子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「義演」の意味・わかりやすい解説

義演
ぎえん

[生]永禄1(1558).京都
[没]寛永3(1626).4.21. 京都
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての真言宗の僧。京都醍醐寺 80代座主。父は二条晴良で,足利義昭の猶子となる。元亀2 (1571) 年得度し,天正3 (75) 年金剛輪院を再興し,翌年大伝法院座主となり,やがて醍醐寺座主となる。同7年に大僧正に叙され,同 13年准三后となった。特に豊臣秀吉の好遇を得て,秀吉創建の方広寺大仏殿の造営に際しては地鎮法を勤修した。慶長3 (98) 年の醍醐の花見でも知られるとおり,秀吉はしばしば醍醐を訪れた。この間,義演は荒廃した同寺の復興に力を尽し,三宝院,光台院の修復,さらに同5年にはその金堂の落慶を行なった。また寺史,寺録の編纂にも着手し,『醍醐寺新要録』 (22巻) その他を編纂し,『五八代記』 (3巻) その他を著わした。

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旺文社日本史事典 三訂版 「義演」の解説

義演
ぎえん

1558〜1626
安土桃山〜江戸時代初期の真言宗の僧
二条晴良の子。醍醐 (だいご) 寺に入り,その再興につとめ座主 (ざす) となった。さらに豊臣秀吉の援助をうけ,大僧正・准三后に進んだ。著書に『義演准后日記』など。

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367日誕生日大事典 「義演」の解説

義演 (ぎえん)

生年月日:1558年8月20日
安土桃山時代;江戸時代前期の真言宗の僧;醍醐寺座主
1626年没

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世界大百科事典(旧版)内の義演の言及

【後七日御修法】より

…翌年から恒例として宮中御斎会と並んで行われるようになり,東寺一の長者が導師を勤めた。のちたびたび中絶したが,1623年(元和9)醍醐寺座主義演が紫宸殿において復興した。明治維新により1871年(明治4)に廃止されたが,83年東寺灌頂院で再興。…

【三宝院】より

…その後応仁の乱で醍醐寺は荒廃し,三宝院も焼失した。安土桃山時代に出た義演は,醍醐寺の金剛輪院を復興し,義演に帰依した豊臣秀吉は,たびたび醍醐寺に赴いたが,1598年(慶長3)にはそこで盛大な観桜の宴を催した。その際数々の殿舎が改修整備されたので,義演は金剛輪院の名を由緒ある三宝院に改め,第32世の三宝院主となった。…

【醍醐寺新要録】より

…全22巻。編者は醍醐寺第80代座主義演(ぎえん)。濫觴(らんしよう)部,伽藍(がらん)部など14部に大別され,さらに各部は篇・類・段に細分される。…

※「義演」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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