日本歴史地名大系 「羽衣石城跡」の解説
羽衣石城跡
うえしじようあと
羽衣石川の上流に位置する標高三七二メートルの羽衣石山に築かれた城跡。戦国時代、東伯耆の軍事上の要衝とされた。現在、山頂部と中腹の尾根上に遺構が残る。山頂部に位置する主郭は東西六六メートル・南北二〇メートルの規模で、南辺の中央付近に虎口を設ける。主郭下段には腰郭をめぐらせ、南辺の法面には石垣が築かれている。さらに東側と北側には地元で二の丸・三の丸とよばれる数段の郭からなる区画が設置されている。中腹の遺構は、城の大手にあたる北西方向に延びる数条の尾根上に、階段状の郭が連続して配され、堂々たる規模を誇る。
貞治五年(一三六六)に塩冶高貞の子高秀が築城、南条伯耆守貞宗と改名したといわれる(「羽衣石南条記」など)。大永四年(一五二四)宗勝(宗元)のとき尼子経久の攻略により落城し、経久の子国久が配されたという。のち尼子氏が衰えて毛利氏の勢力が伯耆に及ぶと、永禄年間(一五五八―七〇)宗勝が毛利氏の応援を得て城主に復帰、天正三年(一五七五)からは宗勝の子元続、同一九年からは元続の子元忠が居城したという(「伯耆民談記」など)。天正二年と推定される閏一一月一六日の吉川元春書状(閥閲録)に「羽衣石」とみえ、山田出雲守重正は数年前に九州の陣から戻って当地へ至り、小寺元武とともに当城に立籠った。これは永禄一二年に尼子勝久が出雲に侵入した時のことで、このとき毛利方は南条豊後守を伯耆に下し、南条氏は家城である羽衣石へ入ったという(「吉川家旧記」など)。天正元年一〇月、小早川隆景は当城にいた山田重直や吉川元春らに対して、美作国
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報