デジタル大辞泉
「聖明王」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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せいめい‐おう‥ワウ【聖明王】
- 百済(くだら)第二六代の王(在位五二三‐五五四)。中国の梁に朝貢して文物の輸入に努め、仏教を尊び、日本とも親交を結び、釈迦仏像や経典を最初に日本に伝えたといわれる。晩年には新羅と戦って敗死した。五五四年没。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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聖明王
せいめいおう
(?―554)
朝鮮、百済(くだら)の第26代の王(在位523~554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗沘(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。
[浜田耕策]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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聖明王
せいめいおう
?~554
聖王・明王とも。百済(くだら)の国王(在位523~554)。武寧(ぶねい)王の子。名は明穠(めいじょう)。「上宮聖徳法王帝説」によると,538年に仏像と経典を大和朝廷に送った(「日本書紀」は552年)。「日本書紀」の引用する「百済本記」では,日本との同盟関係のもとで任那(みまな)の復興に努力したとされる。554年みずから軍隊を率いて,高句麗と結んだ新羅(しらぎ)を攻撃しようとしたが,新羅軍の伏兵にあって戦死した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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聖明王 せいめいおう
?-554 百済(くだら)(朝鮮)の第26代国王。在位523-554。
武寧(ぶねい)王の子。朝鮮正史の聖(せい)王にあたる。欽明(きんめい)天皇時代の日本と親善関係をむすび,高句麗(こうくり)や新羅(しらぎ)とたたかう。仏教をとうとび,日本へ仏像,経典をつたえた。聖王32年7月新羅とたたかって戦死。諱(いみな)は明穠。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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聖明王
せいめいおう
?〜554
朝鮮の百済 (くだら) 王(在位523〜554)
6世紀前期の朝鮮では百済・新羅 (しらぎ) ・高句麗 (こうくり) ・伽耶(加羅,任那 (みまな) )諸国および日本との国際関係が複雑で,その中にあって王は権謀術数に満ちた外交を行い,日本が百済に武力援助する見返りとして日本に仏教を伝えたりしたが,新羅との交戦中に敗死。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の聖明王の言及
【聖王】より
…在位523‐554年。聖明王,明王ともいう。諱(いみな)は明禯または明穠。…
※「聖明王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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