聖王(読み)セイオウ(英語表記)Sǒng-wang

デジタル大辞泉 「聖王」の意味・読み・例文・類語

せい‐おう〔‐ワウ〕【聖王】

徳のすぐれた君主聖主

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精選版 日本国語大辞典 「聖王」の意味・読み・例文・類語

せい‐おう ‥ワウ【聖王】

〘名〙 徳の高い王。知恵道徳のすぐれた君主。聖帝
※十七箇条憲法(604)「七曰〈略〉故古聖王、為官以求人。為人不官」 〔礼記‐祭法〕

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「聖王」の意味・わかりやすい解説

聖王
せいおう
Sǒng-wang

[生]?
[没]聖王32 (554)
朝鮮,古代三国の一つ百済の第26代の王(在位 523~554)。武寧王の子。諱は明禯(めいじょう),聖明王とも呼ぶ。聖王の時代は北方に強敵高句麗迫り,東方には新興新羅の脅威を受け,きわめて多難な時代であった。王は中国南朝のに朝貢してその文物制度を取り入れ,国力の回復をはかった。すなわち聖王16(538)年,首都を熊津から泗沘に移し国号も一時南扶余改め,中央,地方の制度を改革した。王の外交政策は権謀術策が多く,新羅の任那進出に対しては日本を支持するごとく見せかけて事実は王自身も任那併合の野心をもち,金官国併合(532)以後は任那復興会議の主導権を握りながら任那への進出をはかって日本を牽制した。また高句麗に対しては一時新羅と結んで聖王29(551)年ハン(漢)江流域に進出し,失われていた 6城を奪回した。しかし翌年新羅にこれを奪われたので同 32年王は新羅に攻め込んだが,かえって新羅軍のために敗北して戦死した。王は援助を仰ぐ意味もあって盛んに日本に使節を派遣し,仏教釈迦像幡蓋経論)を伝え,また五経,医,易,暦などの学者を送ったことで有名(→百済文化)。日本側史料には,欽明13(552)年西部姫氏達率怒唎斯致契(せいほうきしだちそちぬりしちけい)らによってもたらされたと記されている(→欽明天皇)。

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改訂新版 世界大百科事典 「聖王」の意味・わかりやすい解説

聖王 (せいおう)
Sǒng-wang
生没年:?-554

朝鮮,百済の王。在位523-554年。聖明王,明王ともいう。諱(いみな)は明禯または明穠。524年に梁から〈持節・都督百済諸軍事・綏東将軍・百済王〉の爵号を受け,538年には泗沘(しひ)(扶余)に遷都して国号を南扶余と改めた。新羅と連合して高句麗を攻め,また新羅に対抗するために日本と交渉を持つなど,たくみな外交を展開したが,554年,新羅との戦いに敗死した。日本へ仏教を伝来したと伝えられている。
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デジタル大辞泉プラス 「聖王」の解説

聖王〔ハインリヒ2世〕

《Heinrich der Heilige》ドイツ王(在位1002~24年)、また神聖ローマ皇帝(在位1014~24年)であったザクセン朝の王、ハインリヒ2世の異名。

聖王〔ルイ9世〕

フランス国王、ルイ9世(在位1226~70年)の日本語での異名。没後の1297年にローマ教会によって列聖されたことから。「聖ルイ」とも。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「聖王」の解説

聖王 せいおう

聖明王(せいめいおう)

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世界大百科事典(旧版)内の聖王の言及

【百済】より

…大和王朝は百済からの新文物にひかれ,外交上のみならず軍事的にも百済を支援することになるが,その軍事力は三国抗争に影響を与えるほどのものでなかった。
[第4期――宮廷貴族連合時代]
 538年に聖王は王都を熊津から泗沘(しひ)(現,忠清南道の扶余)へ移した。泗沘は水陸交通の要衝で,西海岸地域を支配し,加羅諸国,中国の南梁,大和王朝などと積極的な外交交渉を進めるのに格好の地であった。…

※「聖王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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