舟橋村
ふなばしむら
[現在地名]津幡町舟橋
河北潟に注ぐ能瀬川と津幡川の間の沖積地に位置。南は清水村・庄村。集落は本村と出町(大豆谷)からなる(三州地理雑誌)。能登街道が通る。天正一四年(一五八六)一月二二日、前田利家が黒津舟権現(現内灘町の小浜神社)再興に協力を命じた村々のなかに舟橋村がみえる(「前田利家印判状写」黒津舟神社文書)。正保郷帳では高七九〇石余、田方四八町・畑方四町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高九三八石、免五ツ五歩、小物成は山役四〇八匁・草野役二一匁・蝋役四匁・川役六匁(三箇国高物成帳)。
舟橋村
ふなばしむら
[現在地名]福井市舟橋町・舟橋一―二丁目
九頭竜川と北陸街道の交差する辺りの南岸に位置し、天正年間(一五七三―九二)柴田勝家によって架橋されたという舟橋から村名が起こったといわれ、天正一三年一〇月五日付の堀秀政掟書(竜田家文書)に村名がみえる。北岸稲多村は当村より分村したと伝え、また慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には「舟橋川南四番」と記され、その石高二三〇四・二二三石は舟橋・舟橋新・寺前・郡の四ヵ村を含む地域である。福井藩領。
北陸街道の九頭竜川の渡河地点に位置することから、南の福井宿、北の長崎宿(現坂井郡丸岡町)との間に位置する宿駅としても繁栄し、江戸時代には駅馬六疋を常備した(越前国名蹟考)。
舟橋村
ふなばしむら
[現在地名]稲沢市船橋町
東は横地村に接し、三宅川北岸の氾濫原に位置し、地が低い。古代、木曾川の支流が当村内を流れ、船橋を架けるほどの大河であったという(尾張名所図会)。その後水路が変わり、江戸期には北の二〇ヵ村の悪水が流れ込み船橋川となり、三宅川の水源となったが、万治元年(一六五八)日光川ができると水落がよくなった(徇行記、明治村史)。船橋川の東に人家が集中していた(天保村絵図)。
延文四年(一三五九)の宗暁置文(妙興寺文書)に栄林庵の所領として「大船橋田 重元方寄附矣」とみえ、永和二年(一三七六)滅宗宗興自筆円光寺開山塔天瑞塔領注文(同文書)に「船橋池役」とみえる。天正三年(一五七五)織田信長が道根・横野堤(萩原古川堤)修築を代官祖父江五郎右衛門らに命じた朱印状(氷室家文書)に船橋とみえ、同一一年織田信雄が杉浦五左衛門らを奉行として堤築造を命じた朱印状(杉浦家文書)に舟橋とみえ、天正末には家臣吉田万兵衛の知行地であった(織田信雄分限帳)。
舟橋村
ふなはしむら
[現在地名]舟橋村舟橋
白岩川の左岸、支流栃津川との合流点に位置し、西は竹内村、東は泉村(現立山町)、南は仏生寺村と浦田村(現立山町)。地名はかつて細川宗十郎が架けた舟橋の橋詰に村立てしたことに由来するという(越中志徴)。応永二六年(一四一九)八月二五日の高野宗秀書状(極性寺暦代略記)には、高野宗秀が舟橋村道場に屋敷と田二反を寄進したとある。
舟橋村
ふなはしむら
面積:三・四七平方キロ
県東部の常願寺川下流右岸に位置し、北と西は富山市、南は立山町、東は上市町。郡の北西を占め、県内最小の自治体である。常願寺川によって形成された扇状地扇端部にあたり、北にごく緩やかに傾斜する沖積平野に河川が流入し、多くの集落が散在する。標高は一〇メートルから二三メートルで、灌漑用水にも恵まれた農業地区である。富山地方鉄道本線が通り、県道が東西南北に村を走る。
舟橋村
ふなばしむら
[現在地名]羽島市舟橋町本町・舟橋町出須賀・舟橋町宮北・舟橋町
江吉良村の南西に位置する桑原輪中内の村。本郷と江北・出須賀の三集落がある(濃州徇行記)。当地には天正(一五七三―九二)の中頃まで真宗寺院願誓寺があった。同寺は現岐阜市西野町に移転したが、寺蔵の絵像裏書に文明二年(一四七〇)五月一六日の日付があり、「中島郡堀津北方之内船橋」と記されている(岐阜市の→今泉村)。年未詳六月八日の下間頼龍奉本願寺御印書(円覚寺文書)にも地名がみえる。慶長郷帳では高五二〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によると堀直寄(越後長岡藩)領。同五年尾張藩領となり(明暦覚書)、幕末に至る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 