若一王子宮(読み)にやくいちおうじぐう

日本歴史地名大系 「若一王子宮」の解説

若一王子宮
にやくいちおうじぐう

[現在地名]本山町寺家 大宮

寺家じけ西部の小丘上に鎮座する。西方長徳ちようとく寺跡がある。祭神天照大神伊邪那岐命伊邪那美命。旧郷社。

社伝によれば、久安五年(一一四九)紀伊国熊野有馬ありま村より勧請し祀ったのを始まりとし、長徳寺の鎮守であったという。ちなみに、長徳寺領が熊野社に寄進されたのが久安五年とされている(「編年紀事略」など)。安元二年(一一七六)一二月三日の土佐国庁在家役免状(「蠧簡集木屑」所収長徳寺文書)に「長徳寺并王子殿」とみえる王子殿が当社にあたると考えられる。

若一王子宮
にやくいちおうじぐう

[現在地名]香我美町徳王子

徳王子とくおうじの西部、字澪標みおづくしに鎮座。祭神は天照大神・池田親王。相殿として速玉男神・伊邪那美命・事解男神を祀る。旧県社。古くより付近八ヵ村の総鎮守であった。

「南路志」所引の社記には「勧請ハ昔熊野より村上永源上人御厨子を奉負此所に勧請之由云伝」とみえる。また同書所収村上氏系図のなかの栄元の注記に「貞和中土佐ニ下向大忍ノ王子ゴンゲン別当」とあり、永源と栄元が同一人であれば貞和年中(一三四五―五〇)勧請と解される。しかし弘安元年(一二七八)一二月四日の若王子宮別当職安堵状(香宗我部家伝証文)で僧禅源が父道舜の譲状により若王子別当職を安堵されているから、これ以前から鎮座していたことになる。

若一王子宮
にやくいちおうじぐう

[現在地名]大豊町寺内 奥の宮

豊楽ぶらく寺の西方、字奥の宮おくのみやに鎮座。祭神は天照大神。旧郷社。社伝によれば豊楽寺鎮護のために紀伊国熊野より勧請、その後衰退したらしく仁平元年(一一五一)に再興したという。長宗我部元親以前には、豊永とよなが郷を領した豊永氏が代々崇敬、社殿の造営を行ったという。

若一王子宮
にやくいちおうじぐう

[現在地名]高知市山ノ端町

やまはな町の中部、小高い地に鎮座。祭神は天照皇太神。旧郷社。紀伊国熊野との関係が考えられるが、勧請年次など詳細は不明。小高坂こだかさ村の産土神として信仰されてきた。近世境内には本殿舞殿拝殿・神輿蔵があり、別当は竜福りゆうふく院であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報