荒木郷(読み)あらきごう

日本歴史地名大系 「荒木郷」の解説

荒木郷
あらきごう

国府こくふ町北東部から大野郡丹生川にゆうかわ村北西部にかけての荒城あらき川沿岸を占めていた古代から近世にかけての郷。「延喜式」神名帳に載る荒城神社は、現在も国府町宮地みやじにある。「和名抄」の荒城郡七郷のうちに荒城郷があり、郡名と郷名が同じなので、郡家の所在地であったと思われる。仁安元年(一一六六)頃の飛騨国雑物進未注進状(宮内庁書陵部蔵)では、荒木郷は蒔苧三目・蒔大豆二石一斗二升・苧二目・御帷布一反の未進分が記される。建久四年(一一九三)一一月一二日、源頼朝は右近将監多好方を荒木郷の地頭に補任した(吾妻鏡)。好方は楽人で、同二年頼朝の招きで鎌倉に赴き、鶴岡八幡宮遷宮にあたり秘曲を奏し、神楽を伝授した恩賞であった。

荒木郷
あらきごう

「和名抄」諸本は訓を欠く。遺称地はなく、比定地は諸説があってにわかには確定しがたいが、いずれも大山山麓と想定されている。「大日本地名辞書」「因伯地名考」は加勢蛇かせいち川中流域の現東伯とうはく町の旧上郷かみごう村・下郷村地区および現大栄だいえい町の旧さかえ村地区を含む地域に比定し、「鳥取県史」は勝田かつた川の上・中流域として現赤碕あかさき町のうちの旧成美なるみ村・以西いさい村地区に比定している。

荒木郷
あらきごう

「和名抄」東急本は「原木」と記し、「阿良木」と訓を付す。「大日本史国郡志」は「後曰荒井荘、木井一声相通」とする。「日本地理志料」は小出雲おいずも五日市いつかいち(現新井市)二本木にほんぎ片貝かたかい(現中頸城郡中郷村)関山せきやま(現同郡妙高村)二俣ふたまた(現同郡妙高高原町)一帯にあてる。

荒木郷
あらきごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。東急本に「安良木」の訓がある。「遠江国風土記伝」が加茂かも(現菊川町加茂)にあて、「大日本地名辞書」も加茂村西方にしかた(現菊川町西方・加茂・堀之内付近)に比定する。

荒木郷
あらきごう

「和名抄」所載の郷。東急本に「阿良支」、刊本に「阿良岐」と訓ずる。郷域は現富来とぎ町の中心部に比定されている。推定郷域内には板石を組んだ箱形石棺を採用した古墳時代中期の鹿頭神明森ししずしんめいもり古墳群などがある。天平勝宝二年(七五〇)五月一八日の知識人貢進文(正倉院文書)によれば、越中国羽咋郡「荒城郷」の戸主道君堅石の戸口道君広成が知識人として奈良東大寺に貢進されている。

荒木郷
あらきごう

「和名抄」諸本とも文字異同はなく、伊勢本・東急本・元和古活字本の訓「安良木」から「あらき」と読む。天平勝宝四年(七五二)一一月一七日の僧法栄優婆塞貢進解(正倉院文書/大日本古文書(編年)三)に、「筑前国宗像郡荒城郷戸主宗形朝臣人君戸口」として「宗形部岡足」がみえる。

荒木郷
あらきごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「阿良支と訓むべし」とする。遺称地名として鎌倉期から戦国期の荒木村近代の荒木村があり、現久留米市荒木町荒木・下荒木一帯に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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