荒木村(読み)あらきむら

日本歴史地名大系 「荒木村」の解説

荒木村
あらきむら

久留米市荒木町荒木あらきまちあらき荒木町下荒木あらきまちしもあらき一帯に比定される中世の村。三潴庄とう郷のうち。承久三年(一二二一)九月二八日の高良玉垂宮定額衆注文(御船文書/鎌倉遺文五)によると、荒木村には本定額一五口のうち「背振山□□房永□」「柳坂道性房定□」「柳坂蓮実房実琳」が知行する各料田一町があった。弘安四年(一二八一)六月二三日の尼めうしやう譲状(近藤文書/鎌倉遺文一九)によると、三潴庄「あらきのむらなかとミのミやう」(中富名)内には「つるふち」、「なわしろまち」(苗代町)、「しんてん(新田か)、「おなしきまちにしのつほ」(同町西ノ坪)、「たちハな」、「ならハやし」(楢林)、「あゆかわ」(鮎川)の名田があった。このうち「つるふち」「なわしろまち」「たちハな」「あゆかわ」は、乾元二年(一三〇三)二月二二日の沙弥宗戒譲状(案、同文書/鎌倉遺文二八)により姪今鬼御前に譲られた。

永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)によると、荒木村は大善だいぜん玉垂たまたれ宮の御供所三間の免田を有し、春祠使幣官料一石二斗の神事用途、五月会で村田楽鼓・尻巻・左方相撲人を出し、九月一九日の九月会では一七番の頭役を務めた。同五年一〇月二二日、荒木宗心は「あらきのむらなかひさのミやう(永久名)」や三毛北みけほく宮部みやべ(現大牟田市)などの田畠・在家・募り免田等を子息らに譲与した(「大江宗心所領処分状案」近藤文書/鎌倉遺文二六)。年月日未詳の某売券(同文書/鎌倉遺文二八)は、荒木村内「なかひさのミやう」内の新田荒野を売渡したものであるが、その四至は東は「にしむたのもとみそ」(西牟田の元溝)、南は「ミつまたいたう」(三潴大道か)、西は「いちのさを」、北は「たふち」(田淵)であった。


荒木村
あらきむら

[現在地名]上野市荒木

西明寺さいみようじ村の東。北の寺田てらだ村との間の服部はつとり川をなか峡谷とよび、両岸に両村の小字中ノ瀬がある。真泥みどろ(現阿山郡大山田村)と境する東の山には、伊賀最古と推定される車塚くるまづか古墳、その南の高塚たかつか山と西山麓にも古墳がある。石田いしだに弥生期の石鏃散布地がある。その南方のダラは、壬申の乱で大海人皇子が伊賀の中山なかやまを経て、「日本書紀」天武天皇元年六月条に「会明に、萩野たらのに至りて、暫く駕を停めて進食みをしす」とある萩野といわれている。萩野には七月に多臣品治をして三千の兵を屯せしめ、近江軍が「萩野の営を襲はむとして急に到る。爰に将軍多臣品治へて、精兵を以て追ひて撃つ」とある。寺之前てらのまえ・石田・野々浦ののうらの一部平坦地にはわずかに条里の遺構も認められる。須智荒木すちあらき神社の下には服部川の一之いちの井堰があり、当村が川水を一番早く引く権利があったといわれ、歴史の古さを物語る。

東への道は車塚北方の谷を真泥村へ出、鎌倉時代には俊乗坊重源によって服部川に沿う川南の道が開かれたと想像される。


荒木村
あらきむら

[現在地名]豊田町大字荒木

粟野あわの川の支流いちまた川の下流域に位置し、北は佐野さの村、東南方は一ノ俣川を境に浮石うきいし村の奈留なるに、南西は粟野川を境に浮石村下浮石しもうきいしに、西北方は殿居とのい村に接する。長府藩領で豊浦郡田耕筋に属する。

鎌倉時代中期、付近一帯の領主であった豊田氏の八代豊田種隆の次子種能は、荒木村域を領し新木氏を名乗ったといわれる(豊田氏系図)

村内の八幡宮の大永七年(一五二七)の年号のある棟札に「立願主荒木住」とある。


荒木村
あらきむら

[現在地名]福光町荒木

大井おおい川西岸、小林こばやし村の北方にあり、西境を小矢部おやべ川が流れる。二俣ふたまた越が南の高宮たかみや村から西の福光村へ通る。元和五年(一六一九)の家高新帳に「あらき」とみえ、田中久三郎組に属し、役家数二三、うち一〇軒はつしま様方と注記される。正保郷帳では高一千三〇四石余、田方八二町二反余・畑方四町七反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一千三六〇石、免五ツ二歩、小物成は山役一〇一匁(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には大西先組に属し、家数四九・人数二四七、頭振家数二・人数六、馬七・牛二、一ヵ寺(正円寺)があった(「大西先組覚帳」福光町立図書館蔵)


荒木村
あらきむら

[現在地名]行田市荒木

主として見沼代用水左岸に位置し、小名八王子はちおうじ新田しんでんが同用水右岸にある。北は須賀すか村、西は斎条さいじよう白川戸しらかわど小見おみ各村。日光脇往還が南西から北東に貫いている。「風土記稿」は当村の旧家益次郎の「先祖荒木兵庫頭ハ伊勢新九郎長氏ト共ニ関東ヘ下リタル七人ノ其一ナリ、子孫荒木越前ノトキ当所ニ住シテ忍ノ城主成田下総守ニ属シ、八十貫文ヲ所務セシ由」という。また村内東部の長善ちようぜん沼は、越前の子兵衛尉長善の居所であり、長善は成田氏長と小田原に籠城して討死したとも伝えている。「増補忍名所図会」は長善沼周辺で鏃・銃弾・武具類多数が出土したといい、天文五年(一五三六)八月、おし城主成田長泰が上野国青柳あおやぎ(現群馬県館林市)の城主赤井勝元と戦ったと伝える古戦場は(成田記)、ここであったろうとする。


荒木村
あらきむら

[現在地名]湯布院町川北かわきた 荒木

乙丸おとまる村の西、大分川右岸に位置する。中世の荒木名の遺称地。文和三年(一三五四)一〇月一六日戸次浄心(重親)は家領を大友惣領大友氏時に譲っているが、そのなかに荒木名も含まれていた(「戸次浄心安堵申状案」大友文書)。永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(同文書)にもみえ、荒木名は大友惣領家の所領に組込まれている。文禄二年(一五九三)の由布院石武名田方検地野帳(永青文庫)に名請人として「あら木村弥七郎」がみえる。慶長五年(一六〇〇)二月の速見郡・由布院知行方目録写(北九州市立歴史博物館蔵)に村名がみえ、高六四四石余。


荒木村
あらきむら

[現在地名]宇佐市荒木

森山もりやま村の東、宇佐平野の中央部にあり、村の東をくろ川が南流する。東は畑田はたけだ村、北は乙女おとめ村。承和一一年(八四四)六月一七日の宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起(石清水文書)で八幡神が馬城まき(御許山)から移座したとされる「比志方荒城潮辺」を当地とみるむきもある。一般にこの記述は乙女村のおとめ神社のこととされるが、当地内にはケープラ塚とよぶ貝塚があり、また神功皇后出兵のとき当地で軍船を製作したなどの伝承もあり、古くは海浜であったことは確かで、「潮辺」と記されたのか。


荒木村
あらきむら

[現在地名]出石町荒木細見ほそみ

弘原町分ひろはらまちぶんの西方、出石川支流すげ川の左岸に位置する。対岸南方は細見村、南西は福見ふくみ村。本村の東に桜尾さくらお(現在は細見地内)、西に平田ひらたの集落がある。桜尾には出石藩主が野遊の折に休憩所とした茶屋・鳥屋が設けられ、桜尾山(のちに鶴山と改称)の麓には士分の者も住していた。菅川流域の当村および細見・福見・暮坂くれさかの計四ヵ村(菅谷四ヵ村)は中世には菅庄として推移し、近世初頭には一村(菅谷村)として高付されていた。しかしそれまで一本であった年貢免状が、寛永九年(一六三二)に四本に分れており、この頃までに村切が行われたと考えられる(「出石町史」など)


荒木村
あらきむら

[現在地名]岸和田市荒木町一―二丁目・荒木町

春木はるき村・加守かもり村の東、八木やぎ平野中央部の府中ふちゆう街道沿いに位置する。条里制地割遺構がみられ、一の坪から三六の坪の地名が残る。府中街道は村の東側を条里に沿って北東から南西に走る。

村高は文禄三年(一五九四)の検地高四四六石弱(延宝七年「検地帳」荒木家文書)。慶長九年(一六〇四)の八木之郷内荒木村検地帳(東京大学史料編纂所蔵)でも同高、うち六石余は永荒。


荒木村
あらちむら

[現在地名]喜界町荒木あらき

わん間切の南西部に位置し、西から南にかけては海に臨む。荒木崎がある。荒木あらち間切のうち。島内で最も早く開けた地で、荒木泊は琉球との通交の拠点であったとされる。泊の広場にノロの霊木クバ(檳榔)が立並び、天女がこの木を伝って天地の間を昇り降りしたとされ、尊崇されていた。琉球王国から喜界郡守を任じられた勝連親方は当地を拠点とし、その子は勘樽金と号し、任期が満ちて国に帰り、按司(アジ)になったという(「泉家系図」泉家文書)。成化二年(一四六六)琉球の尚徳王の軍勢が上陸したという跡がある。


荒木村
あらきむら

[現在地名]宇治田原町大字荒木

荒木山の南麓、田原川の北側に位置する村で、西はごうくち村、南は川を挟んで贄田ねた村に接する。

古代の田原道や信楽しがらき街道に沿うため、早くから開かれた地と考えられる。天智天皇の第七子で田原天皇と諡号された施基皇子が、初め高尾こうのおに住み、のち荒木の地に居住したという伝えがあり、死後その子湯原王や、のちに光仁天皇となった白壁王が創建したという田原天皇社(現在は大宮神社に合祀)や、山滝さんりゆう(現在廃寺)がある。


荒木村
あらきむら

[現在地名]出雲市荒茅町あらかやちよう

神戸かんど川最下流右岸にあり、西は西園にしぞの村、東は松寄下まつよりしも村、北は中荒木村(現大社町)。慶長九年(一六〇四)一〇月二三日の杵築大社神領北島方注文(北島家文書)に村名がみえ、高四二石余が記される。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高七一四石余、寛文四年(一六六四)の本田高三一九石余・新田高五七石余。「雲陽大数録」では高二三〇石余。宝暦四年(一七五四)の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)では東西六町四〇間・南北八町四四間、高四四九石、うち杵築社領一七四石、ほかに同村杵築社領一七九石、田一七町・畑一七町三反、家数一三五・人数七二八、牛三〇・馬二四、大工一・綿打一・鍛冶屋一と記す。


荒木村
あらきむら

[現在地名]福井市荒木町・荒木別所あらきべつしよ

足羽あすわ川右岸にあり、村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高一〇一二・三一七石とある。正保郷帳以降、荒木村と別所村とに分れ、同帳によれば荒木村は田方五五一石余・畠方六七石余、別所村は田方三八四石余・畠方八石余。福井藩領。村の東、岡保おかぼ村との境近く、字五枚橋ごまいばし大畔綴おおくろなわてでの戦死者の供養塔がある(→西光寺跡


荒木村
あらきむら

[現在地名]長野市若里わかさと 荒木

さい川の北岸にあり、市村いちむら渡船場(現丹波島橋元)から善光寺ぜんこうじ町への入口、北国脇往還ほつこくわきおうかんの要所に位置する。東は市村、西は中之御所なかのごしよ村と境し、南は犀川、北は中之御所村と接する。

村名の初見は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)で、「百三拾石弐斗六升九合 荒木村」とある。


荒木村
あらきむら

[現在地名]安濃町荒木

安濃川中流左岸の平地にあり、東は安濃村、西は安濃川を挟み対岸に粟加おうか村がある。集落の北にろくつぼという字名があり、条里制の名残をとどめている。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「荒木」と現れる。慶安郷帳(明大刑博蔵)には田方六四六石余、畑方七二石余とある。江戸時代を通じて津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の戸数四〇、ほかに僑一、人口一八二、牛一四。神祠に神明、寺院に称名しようみよう(真宗高田派)生楽しようらく(臨済宗)があった(宗国史)


荒木村
あらきむら

[現在地名]加賀市荒木町

大聖寺だいしようじ川中流左岸、南西に一〇〇メートル級の山を負い、北東にわずかに耕地が開ける。北は黒瀬くろせ村。「江沼志稿」に「昔者当領迄江ニテ船ヲ繋シト、今ニ宮ニタモノ木ノ古木有。古舟繋シ木也」とみえ、大聖寺川が現在よりかなり西の当村集落付近を流れていたことをうかがわせる。「天文日記」天文一三年(一五四四)一一月一三日条に久末勝厳寺代として「ヨネノコホリ荒木道順」が上番しており、同一六年二月九日・同一八年五月一四日・同二〇年八月九日の各条にも上番の記載がある。正保郷帳によると高一一三石余、田方四町五反余・畑方三町余、物成高六〇石余。


荒木村
あらきむら

[現在地名]松阪市荒木町

坂内さかない川の河口近い右岸にある。北は大平尾おおびらお村に、西は久保田くぼた村、南は石津いしづ村に、東は大口おおくち村に接する。近世は和歌山藩松坂領。寛永一一年(一六三四)の飯高郡新田新畑帳(徳川林政史蔵)に荒木村の項があり、下畑八筆が記され、開発の一端を瞥見することができる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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